« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »

2008年9月

2008年9月24日 (水)

DNA

遺伝子

DNAは、人間だけでなく、生き物なら何でも持っています。量は、人間の身体の中には、約20gしかありません。DNAは、親から子に伝わりますが、男性の場合は、精子という形で伝わりますから、DNAしか伝わりません。女性の場合は、自分の細胞を一つだけ子にあげることができます。子供は、半分づつ父と母からDNAをもらいますが、その量は、1000億分の1gくらいです。この微小な物質が、細胞分裂を促すことによって、60兆個の細胞がある人間の体になるのです。

人間の細胞一つひとつに2mの長さのDNAが折りたたまれて入っています。二重らせんの形をしたDNAは、そのうちの半分が子に伝わりますが、それがどんなふうに混ざって伝わるかはまったくの偶然です。それは、親がコピーするときに、100万文字の1つくらいの割合で、必ず間違いを起こすからです。100万に1つというのは、とても少ないようですが、DNAの文字は30億くらいあるので、相当の数になります。つまり、親から子へ行くだけで、100万分の30億の変化が起き、さらに子が孫をつくるとき、また同じ割合で変化が起こります。

人間のDNAは、ほとんどいらないものばかりの間に、ところどころに大事なものがあります。生物の世界では、大腸菌のような単純な生き物は、遺伝子がびっしりとDNAの中に詰まっていて効率が高く、増えることだけを至上命令にしています。しかし、人間は、昔、微生物だったときや、爬虫類だったときのものを残してきているのです。人間の体の中は、まるで、DNAの博物館のようなのです。これからも、人間は、機械のように合理性だけを追求しているわけではなく、歴史や自然の営みによって作られてきたものだということがわかります。

老化は、精子と卵子が出会って結ばれ、受精卵になった瞬間から始まります。たとえば、脳の神経細胞は、受精と同時に形成が始まっても、出生以前に分裂は止まってしまいます。一方、体を作り上げている細胞には、生殖細胞と体細胞がありますが、老化するのは、体細胞だけです。老化をしない生殖細胞は、次代を作るためにあるからなのでしょうか。

染色体の実体であるDNAは、二本の紐がねじれあっている二重らせん構造をしています。その紐の両端にほどけてしまわないように「テロメア」がついています。そのテロメアの長さが細胞分裂するたびにだんだんと短くなります。そして、DNAの二重らせんがほどけてくるのを止められなくなります。染色体の端にあるテロメアの長さが、だんだん短くなるというのは、体細胞にしか見られません。生殖細胞では、テロメアが短く変化するという現象は起こらないのです。ですから、分裂するたびにテロメアが短くなる体細胞によって、大部分が構成されている人間の体には、いずれは死ぬように仕掛けられた装置が組み込まれているともいえます。

”<禅と生命科学>から引用しました”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月22日 (月)

シャボン玉とんだ

無常観

野口雨情に「しゃぼん玉」という童謡があります。

しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで こわれて消えた しゃぼん玉消えた

とばずに消えた うまれてすぐに こわれて消えた 風、風吹くな しゃぼん玉とばそ 

野口雨情は、「船頭小唄」などの民謡や「雨降りお月さん」「青い眼の人形」「赤い靴」「七つの子」などの童謡で知られています。実際にあったかどうかはっきりしませんが、この「しゃぼん玉」を作詞したときの状況が伝えられています。

中山晋平たちと童謡のキャンペーンために徳島の宿についたとき、至急電報が雨情の家から届きました。生まれて間がない愛娘が赤痢で亡くなったという知らせでした。悲しみの中で、娘の死に目にも会えなかった雨情は、泣きながらこの童謡を詠んだというのです。

そうすると、このしゃぼん玉は、なにかを象徴しているとも考えられます。一つには人生であり、一つには亡くなった愛娘です。「しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ」は、しゃぼん玉として、長生きの中のまた長生きです。しかし、一方「しゃぼん玉消えた とばずに消えた」、そんなはかないしゃぼん玉もあります。そして、さらに「うまれてすぐに こわれて消えた」とたたみかけます。しかし、そこで終わってしまったら、無常観は消極的な人生観で終わり、また無常感にすぎません。雨情もこのまま泣き伏してしまってはだめなんだと、自分を励ます気持ちで童謡に祈りを込めます。「風、風吹くな」と。これは同時に無常の風をも指しています。そして、諦めてはいけない、積極的に生きようと、「しゃぼん玉とばそ」と童謡を通じて、子供たちが強く生きることを念じるのです。

無常観とは、悲哀の念が導かれ、それをさらに突き詰め、建設的な人生観、世界観をかたちづくるものです。一般に無常というと暗い感じが持たれていますが、「平家物語」の無常などは、「無常観」ではなく、「無常感」なのです。無常感は、無常を悲哀とよぶ感情ですから、無常感と無常感は区別しなければなりません。

”<足るを知るこころ>から引用しました”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月21日 (日)

存在の原理

諸行無常

「この世にあるものは、みな移り変わり生滅して、永遠に変わらないもの、永遠に固定しているのも何一つない」というのが、「諸行無常」に意味です。その「無常」は、仏教の根本的な思想ですが、これは仏教だけが持つ固有の思想ではありません。

段落無常と刹那無常

ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、「万物流転」という思想を持ち、「人間は同じ流れを汲むことはできない」ということばを残しています。人間ならば、生まれる、老いる、病む、死ぬ、という「生老病死」という段階があります。ヘラクレイトスは、この考え方です。言い換えれば「生住異滅」、生じる、とどまる、異変が起きる、それによって滅びる、という4つの段階があるということです。

もう一つが、釈尊の根本思想である「刹那無常」です。こちらは段階的なものではなく、一刹那の中に生滅というものがあり、その生滅が続いていく中に安らぎがあるという見方です。たとえば、荻原井泉水が詠んだ「楠千年さらに今年の若葉なり」という俳句があります。常盤木である楠は、いつも青々としていますが、年々落葉して年々若葉が生じているのです。この切れながら続いていくということ、そこに「刹那無常があるというわけです。無常の中に生滅があるということです。

色即是空と空即是色

「色」とは、目に見えるものというのが本来の意味です。それはまた滅びゆくものでもあるというニュアンスも持っています。ですから、「色即是空」とは、目に見えるものは、いつの間にか空しく、なくなってしまうのだという意味になります。

「空即是色」は、「色即是空」の逆ではなく、別の思想を持っています。そのために、「空」というものを考えなけばなりません。「空」には、二つの意味があります。一つは、空しい、必ず滅びるということから「無常」。もう一つは、「空即是色」の空で、これは「無常」ではなく「無我」ということです。「無我」とは、この世のものは、すべて単独に孤立してあるものはなく、みんな互いにかかわり合いがなければ存在することができないということです。

たとえは、網の目です。網には無数の目があるように見えますが、隣り同士の目が互いにかかわりあってできているので、一つだけ取り出すことはできません。それと同じように、すべてのものが、互いにかかわりあわなければ何ものも存在することができないのです。そのかかわりあいの原理を「無我」といいます。「空即是色」とは、そういったかかわりあい、つまり互いに力になるという関係があって、初めて目に見えるものが存在するという意味なのです。

ですから、「色即是空 空即是色」とは、存在の原理なのです。それが「無常」であり、同時に「無我」であるといっているのです。

”<足るを知る心>から引用しました”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月19日 (金)

対抗意識に欠けた早慶戦

最後の早慶戦

昭和18年(1943年)9月22日に法文科学生の徴兵猶予撤廃と軍隊への動員が発令されました。学徒出陣です。「もっとも印象に残る歓送会、荘厳にして無限の母校愛を表徴する壮行会、それを名残として勇ましく校門を去り、戦陣への首途をさせることができたら、彺くものもとどまるものも何等の心残りがなく、やがてそれ等の大行事は、露営の夢に懐かしまれ、ありし日を瞼にうがべて母校学びの庭に哀惜を送るよすがともなるであろう。これはあらゆる障害を排しても決行されねばならない。」と早稲田の飛田穂州は、述べています。これら心ある指導者のお蔭で、10月16日出陣学徒壮行早慶戦が行われたのです。

小泉信三塾長も、一番思い出があり、全校生が集い得るものは野球しかないと考えていたので、試合を申し入れました。しかし、戦争が激しくなる中で、軍部などに気を使って、なかなか許しがでなかったのです。とうとう、早稲田大学野球部が試合を受けるということで、大学当局の許可を正式にとらないままで挙行されました。外岡野球部長など早稲田側は、職をかけての決断でした。

慶応は、とても実行されないだろうと考えて、選手も帰省して家族と名残を惜しんでいましたから、練習不足だったようです。ほとんど前半で試合は決まり、早稲田の大勝だったのですが、当時の選手は不思議なことに試合の経過をほとんど覚えていなかったのです。早慶の応援歌やエールの応酬などの最後に誰からともなく「海ゆかば」が大合唱されて、それらの印象があまりに強烈だったからです。早慶を超えて「次は戦場で会おう」と励まし合ったのです。

早慶戦は、神宮球場では何度も観戦していますが、あの最後の早慶戦は早稲田の戸塚球場で行われました。神宮球場は、軍部が使用していたからです。前日の練習後に早稲田の選手たちは、トイレまできれいに清掃し、慶応を迎えました。一方、慶応も当日ゴミ一つなく整然と球場をあとにしたといいます。

早慶戦のある日は、休講になったりするのですが、最近は学生の動員も含めて盛り上がりに欠けるようです。また、早慶両校だけを、野球だけを、ことさら特別視する必要もないとは思います。しかし、出場する選手にとっては、早慶戦だけは別格と考えているようです。応援指導部も同じで、早慶戦が最後の舞台になり、4年生はその日限りで表舞台から去ります。慶応の4年生選手は、優勝すると三田で晴やかに最後の挨拶ができるのですが、優勝できないと神宮で試合後に一人ひとり挨拶してお別れです。

甲子園で慶応が善戦したり、早稲田に斎藤がいたりするので、これから早慶戦も見直されるかもしれません。優勝をかけていない早慶戦は、人気がないのもやむを得ません。もっとも、斎藤がいるので、以前よりは入場券が手に入りにくくはなりました。当日券が売り切れで、特別内野席に入れずに、外野席で見たこともあります。往年の勢いは期待しませんが、せめて満員の観衆の前でプレーする早慶戦であって欲しいと両校選手のために願っています。

”<最後の早慶戦>から引用しました”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月14日 (日)

因果一如

因果律

結果は、人間の行為によって決まります。つまり、善い行いが原因となって、よい結果が生まれるのです。これを善因善果といいます。逆は、悪因悪果です。その結果の善し悪しは別にして、物事は、すべて原因があって結果が生まれる、原因がなくては結果も何も生まれないというのが因果律です。

因果という二元的な考え、相対的な考えを否定する方向に進んできました。つまり、善いことをして善い結果が生まれるというのは時間的な隔たりがあります。あるいは、この世で善いことをして、あの世で善い結果が生まれるという空間的な隔たりがあるのです。

そういう二元論を否定して、原因がそのまま結果であるというのが因果一如です。たとえば、紙の裏と表と同じようなもので、裏と表を別々にしようがないと考えるのです。ですから、善いことができる、それ自体がそのまま結果であるし、それが幸せであると考えるのです。

さらに、原因が結果を生む一つの契機となるものを「縁」といいますが、因果一如の考えでは、この縁も原因としてとらえてしまいます。たとえば、何かをするときは、必ず目的を持ち、そして手段を立てるというように二段構えで考えがちです。しかし、因果一如の考えでは、目的と手段とは分けては考えないのです。目的と手段とをより高い立場で統一する、つまりアウフヘーベン、止揚しているのです。

こう考えると、目的が果たせないからといっても挫折するようなことがありません。目的と手段が一つなのですから、「今日はここまできた」とか「昨日より進んだ」ということが一つの結果となるからです。このように手段に全力を尽くすこと、比較する考えをなくして、そのときを大切にし、そのときになすべきことをなすことが大切なことなのです。

何かの目的を果たすためだけではなく、目的が果たされようと果たされまいと、自分がすべきことをしていくのだという人生の目的が生まれてきます。だから、仕事をするにしても、ただ一途に仕事のために仕事をするという心構えが大事なのです。そこから考えて、人がなぜ働くのかといえば、生活のためだけではありません。「人だから働くのだ」という情熱を持っているからです。別に他のためになろうと考えなくても、自分のなすべきことをきちんとしていけば、そのまま他のためになるということです。

”<百歳の禅語>から引用しました”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月13日 (土)

辞書に訊け

謙虚

「わからない文字があったら、知ったかぶりでもって書いちゃいかんぞ。どんなことで人が見たり読むかわからないから、必ずこれを辞書に訊け。辞書を引く、などと生意気なことは言うな」と100歳になる松原泰道の父親は、よく言ったそうです。一つわからないことがわかったと思ったら、その周りで一つわからないことが見つかるのです。わからないことがわかって、またわからないことが出てくるから果てがないのです。永遠に続いていくのです。そうすると人間、自然に謙虚になってきます。誰かに言われて仕方なしに頭を下げるのではなくって、自分のどん底から「まだ足りないんだ」って気がついて、自然に頭が低くなります。

人間にとって謙虚は必要ですが「私は謙虚になろう、謙虚になろう」と努めると、どこかにわざとらしいところが出てきます。読書をしてものを考えれば、謙虚にならざるをえません。学べば学ぶほど、自分の足りないところがよくわかってきます。すると、黙っていても、謙虚な姿勢になります。少しでも学んでいこうという姿勢になってくるのです。辞書に訊くというのもそれと同じことです。

遠慮

茶の湯では「遠慮も三度限り」という決まりがあるそうです。せっかく出されたものを「結構です、結構です」と受けないと、温かいものが冷めてしまったりします。これではかえって失礼にあたるからです。ただし、これは三度まで断ってから受けるという意味ではないようです。

遠慮というのは、「遠い先のことを考える」「他人の身になって考える」という意味です。そういう時間的にも空間的にも、遠くのことを考えていくこと、それを遠慮といいます。目先のことばかりを考えないということです。

「閻魔さんにもわからんように良いことをしろ」「他にわかったら何にもならんのだ。黙々として人のために幸せを念じていけ」とも師匠である父親が教えてくれたそうです。「陰徳を積む」ということです。100歳になって、このように父親の教えを語ることできる泰道が素晴らしいと思います。その父親の教えを信じて、忠実に実践し続けたからこそ言えることばだからです。

”<百歳の禅語>から引用しました”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アメリカ人には調停が必要

調停者

世の中には、他人を助け、他人のために尽くすことを目的とする職業は少なくはありません。しかし、他人の役に立ち、なおかつ完全に公平であることが要求される職業となるとその数はそれほど多くないでしょう。そのうえ、それを実行する人も成長させるとなると、なかなか見つかるものではありません。調停は、こうした数少ない職業のひとつです。(1994年 レビン久子)

著者は、ボランティアの調停者として、アメリカのブルックリンで調停にかかわりました。そして、「やはり調停は必要だ」と実感するようになったのです。一般に、世界各地からやってきた人々で成り立っている国では、言葉や文化、習慣の違う人々の間に起こる揉め事は、話し合いより法律で解決するほうが簡単で手っ取り早いと考えられていました。

アメリカには、弁護士が多いのですが、それは成功報酬制度の効用です。裁判の資金が潤沢でない人が、賠償金を受け取ってから弁護士料を支払うという約束で訴訟を起こす成功報酬制度及び根拠法は、庶民にとって利点があります。しかし、そうして裁判が身近になっていればいるほど、日常生活で持ち上がるささいなトラブルや家庭内のいさかいまで、自分たちで解決しようとせずに、警察に訴えて裁判に持ち込もうとする風潮がありました。

弁護士は、戦術のひとつとしても裁判の進展を遅らせます。まして、依頼人が被告の場合、それは裁判の定石でもあるのです。時間を稼いでいるうちに、思わぬところから原告の弱みを発見するかもしれません。

アメリカでは、訴訟費そのものだけでなく、訴訟を回避するため、あるいは訴えられた場合の準備として莫大なお金が使われています。たとえば、ライアビリティと呼ばれる損害賠償保険です。有名なのは医者の不正療法保険ですが、ごく一般の人まで、訴えられて財産をすべて持っていかれることがないようにライアビリティ保険をかけるのが普通です。

調停が裁判に比べてどれほど安上がりかを描いた「訴訟を起こす前に」という本が、1984年に出版されています。調停者のネベルとジャーナリストのクレイの共著です。同じ話の進展に合わせて、そのつど使った費用と時間を数字で示しています。合計すると、調停にかかった費用は7550ドル、かかった日数は6週間です。裁判になると、6万ドル、4年5ヶ月かかっています。そして、訴訟費用の明細では、ほとんどが弁護士の活動費用でした。

時間と費用の節約のほか、調停には当事者の主体性を重んじるという利点があります。さらに、プライバシーも守られます。調停の実施前には関係者間で、もし和解が不成立でも協議の内容は一切他言しないことを約束するのが普通です。また調停不成立で裁判になっても、調停者は証言を拒否することができます。一方、勝つために金と力にまかせて押しまくる裁判では、当事者同士の人間関係は取り返しがつかないほど破壊されてしまいます。

著者は、自身でかかわった実際の調停のケースを例証にあげています。調停で解決しようと合意した時点で、当事者双方の心に相手に対する協調性が芽生え、その気持を下地にして、和解に向けて方策を話し合うのです。両者の誤解や悪感情が減少しないはずはありません。アメリカでは、調停の利用者が増えるにつれて、紛争解決能力が裁判に劣らないことが明らかになりました。そして、裁判と調停のどちらも自由に選択できる仕組みが進んでいます。

”<ブルックリンの調停者>から引用しました”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月12日 (金)

因果を実践論的に考える

因果の道理が確かに有効に働くと信じること

修行を可能にする因果の道理を、直接体験で検証できない状況で、方法として信じ続けなければならないとき、まさに前世や来世、三時業のような概念は、不可避的に要請されるようになる。それは修行者が、自らの修行の限界を自覚したときに、是非必要なものなのだ。修行の中で自分の力の限界が自覚されればされるほど、その発心と志は未来を求めるだろう。つまり、未完の修行の継続を願う意志が、来世をリアルに要請する。

そして、力の限界の自覚が、なぜかという問いになったとき、それは過去への反省に向かう。そして、自分の修行の妨げになるものの原因がわからないとすれば、修行への意志が切実であればあるほど、原因を自ら知りえない過去に求めざるを得ない。ここに前世が現前する。

すなわち、前世も来世も、地獄も天界も、修行への意志と教えへの確信が無ければ無意味な概念なのである。「眼蔵」が因果や業を論じて問題にしているのは、修行の持続それ自体なのだ。修行こそすなわち仏法だと言うなら、問題は、因果の道理が可能にする仏法の存続という業なのである。仏法においては、修行者が誰かはどうでもよいことであり、修行者が個人的にどういう生涯を送り、来世でどうなるかは、まったく問題でない。

「自己を消去する自己」 これが、仏教の「自己」なのです。「ならう」べき「自己」でもあります。ですが、「この世に存在する」ことと「自分である」こととは同義なのですから、それは不可能なことなのです。だから、修行者は、「来世」を必要とするのです。この世での完成が不可能な修行を、さらに続ける意志と希望を、あえて「来世」と呼んでいるのです。

修行者の在り方を決めていくのは、個々の修行の仕方それ自体である。そして、個々の修行を「成仏」への志に方向づけられたものとして編成し、修行者の「主体性」として現実化していく方法が「因果」である。修行者は、「成仏」を目的として志し、それに基づいて過去を反省し、現在の行為を決定しなければならない。これを可能にするのが「因果」という方法なのだ。

坐禅修行をしたことがないので、読んで理解できない部分が多ったのですが、それでも「因果」とか「来世」とかのイメージがすっかり変わってしまいました。著者南直哉は、「この世は無常だ。では、どうする?」と問うのが仏教だといっています。「では、どうする?」は、止まない問い、止んではいけない問いなのです。「不在を承知で、自己を消すために自己を課す。その耐えがたい決断と意志を必要とするのが仏教である。」ということばに体験に裏付けられた尋常でない覚悟を感じました。

”<正法眼蔵を読む>から引用しました”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 9日 (火)

役に立つか面白いか

「縁起の法」を「悟る」

普通、「さとり」と聞くと、なにか大変な出来事を想像しますが、「さとり」とはそんなものではありません。だいたい、「さとり」などと名詞でいうから、なにか特殊な体験かと錯覚するので、「悟る」は、もともと動詞なのです。では、なにを悟るかというと、「縁起」というものの見方、それに基づく実践の方法なのです。それは、「縁起」の教えに照らして、自分の在り方を根底から見直し、そこから生き方を変えていこうという、手間がかかる地道な実践なのです。

「さとり」は、「修行」と称して特殊な訓練や規範を施し、意識や行動を一変させ、人格を破壊してしまうようなことではありません。「さとり」とは、「縁起」の学びと実践の全体をいうのですから、それは修行と同じことなのです。「修証は一等なり」とは、まさにこのことなのです。修証が一等ならば、修行者の境地の進み具合は、力量の大小や、学ぼうと志す教えや実践の程度によるということになるからです。

正法眼蔵

道元の生き様が好きで、過去に何冊か「正法眼蔵?」らしきものを読んだ覚えがありますが、ひどく難しくて、わかったようなわからなかったようなすっきりしない思いがありました。でも、いつか、もう一度挑戦したいとは考えていました。そんなとき、この「正法眼蔵を読むー存在とはどういうことか」に出会ったのです。

著者南直哉は、「道元禅師が説く真理は、読み手が真理だと思ったことにすぎない」といいます。そして、「眼蔵は問われることでしか存在しない。ならば眼蔵を読むとは、正解がないままに問いつづけるという疲労に耐えることだ。」ともいっています。さらに、あとがきは、「役に立つか面白いか、それだけです。それ以外は、ただのゴミです。」です。

役に立つというより新鮮な考え方に触れて面白いのですが、なにせ力量不足で、同じ個所で何度も立ち往生しています。いつになったら読み終わるのかとも思いますが、著者も問いつづけているのですから、少しでもその問いに近づければ、今回はいいような気がし始めました。なんだか、これから何回も読み返すことになりそうな、いやな予感がしてきたからです。

”<正法眼蔵を読む>から引用しました”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 5日 (金)

わしを信ずることができるか?

盛永宗興

禅の修行は、とても厳しいものといわれています。師匠の後藤瑞厳老師に「わしを信ずることができるなら、居てもいい」といわれて、深い考えもなく「信じます」といってしまったと盛永宗興は白状しています。でも、その最初の一言は、千金の重みがあったのです。なぜなら、お互いの信頼関係を抜きにしては、厳しい修業は成り立たないからです。

信ずるということは、文句がいえないことです。「おれが無理なことを言ったというのか。おれはおまえができることしか言うとらん。おまえはおれを信じないのか。」といわれてしまうからです。「これできません」といえませんから、否応なしに工夫せざるを得ないところに進んでいくのです。「無理だといわせず、工夫させる。そこに無限にひろがぅていく可能性が開けるのです。そのためにまず師匠を信じる。文句をいわせず、工夫を絶対条件として、禅寺では小僧を育てるのです。」と宗興は、述べています。

上等の状態になっているものは、はたから見て「あれじゃ、恨みたくもなるだろうな」と思うような扱いを受けながらも、「なにくそ、必ず師匠のほうに頭を下げさせてやるぞ」と食らいついていきます。中ぐらいは、辛くてやめたいけれども、師匠の情けにほだされてついていきます。下は、師匠の権勢、地位などにくっついていたら、食いっぱぐれがないとついていきます。宗興は、「師匠に亡くなられて、しみじみと思い返します。師匠は私に対し、常に上等の扱いをしてくださっていた。情けや権勢で釣ろうとはいっさいしませんでした。」と感謝しています。

人生は途中で終わるものと決めてかかる

松原泰道のことばです。「なにもかも完成させようとすると、あくせくしてくるもの。人生は途中で終わるのもと決めて、行き着いたところまで行けばいいと思うのです。今は、時間が一番欲しいですね。」と述べています。

釈宗演が15才ぐらいのころ、若い雛僧を修業させる禅塾で修業していました。たまたま鬼のように厳しい塾頭が出かけたので、昼寝をしたようです。そこに、急に塾頭が戻ったのです。部屋に戻るには、またぐしかなかった場所のようです。どうせ叱られるか、蹴飛ばされるか、殴られるかだろうと決めて、寝たふりをしていました。ところが、塾頭は、狸寝入りの小僧に手を合わせながら、低い声で「ごめんなされや」と下半身の裾のところをまたがれたのです。

「子どもでも、すべてのものをそのもの足らしめる大きなる働きがそこにある。そういう人間を拝み、開発をするのが、本来の仏教の教えです。」と泰道は述べています。

”<洗心>から引用しました”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 2日 (火)

山岡鉄舟の忠孝

忠孝

鉄舟が8,9歳のとき、母に文字を習っていて、たまたま”忠孝”という字がありました。鉄舟がその意味を問うと、母が教えてくれました。そこで、なにげなく「母さまは、その道をお守りですか?」と質問しました。すると、母は、ハラハラと涙を流して、「鉄よ鉄よ、母は、その道を心掛けてはいるのものの、至らぬ女ゆえまだ完全に行うことはできません。いつもそれを残念だと思っています。忠孝の道は、その内容が遠大で、聞かせても今のそなたにはわかるまい。でも、そのつもりで一心に修行さえすれば、いつかきっと会得ができましょう。必ず必ず今日のことを忘れてはなりませんぞ」と懇々とさとしたそうです。

鉄舟は、母の「この至情の教訓は、此の一席において余が心神に浸み渡れり」といっています。このときの母の言葉は、鉄舟の生涯を一貫していました。勝海舟は、「鉄舟は、馬鹿正直ものだ。しかし、馬鹿もあれくらいの馬鹿になるとちがうところがあるよ」と評しています。鉄舟の馬鹿正直さは、この母の親譲りのものでした。しかし、その馬鹿正直さが、わが子の生涯を支配したことをおもえば、「揺籃を動かす手は、世界を動かす」という諺も納得できます。

のち13歳のとき、父から忠孝は武士の道だと訓えられ、その道を極めるには、有形のものとして武道、無形の心は禅を修めることがよいと示されました。鉄舟の一生は、この父母の教訓を身をもって祖述し、この父母の教訓を、全身心を挙げて“信じ””好ん”だものといえます。

純情

鉄舟が心から傾倒した山岡静山(高橋泥舟の実兄)が、27歳の若さで不慮の死を遂げました。しばらくの期間の師事でしたが、その悲嘆は深刻でした。かって母を失ったときにも、真夜中に母の墓に参り、夜の白々とあけるまで経文を50日間読みつづけたということがありました。そこで、また同じように、毎晩欠かさず墓参りに出かけました。

泥舟が、物陰に隠れて、噂になっている静山の墓に夜な夜な出るという怪物の正体を見届けようとしました。ちょうど、雷鳴とどろく大降りだったそうです。怪物は、墓の前に来ると礼拝し、羽織を脱いで墓に着せかけて、なにやらいっています。「先生!鉄太郎がお側におりますから、どうぞご安心ください」と大きな体で墓をかばうようにしています。静山は、生前雷が大嫌いだったのです。泥舟は、鉄舟の心根をしのび感涙に咽んだそうです。

”<山岡鉄舟>大森曹玄から引用しました”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »