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2008年10月

2008年10月30日 (木)

第一呼吸は、吸うのか吐くのか

赤ん坊のはじめての息

人は息を吐いて生まれ 息を吸って死す(五木寛之)

人は息を吸ってこの生を受け容れ、息を吐いて休息する(玄侑宗久)

赤ん坊は、母親のおなかの羊水の中で呼吸しています。そして、生まれてくるときに産道をとおる圧迫のなかで、肺にまで充満していた羊水を絞り出すのです。気道にも羊水が入っていますから、それも出さないと呼吸ができません。だから、胎児がオギャーと泣くのは、その濡れている気管で、最初に吸う息が苦しいからなのだそうです。その最初に吸う息がうまくいかないときに、お尻を叩くというのです。

一方、赤ん坊は、生まれたときは、ほんのわずかですが、息をしていないのだそうです。だから、パンとお尻を叩いて、羊水と一緒に息を吐き出させるから泣くのだという考えがあります。

息を吸うのは、吐ききれば自然にはいるので、普段はあまり意識しませんが、自然に具わった人間の身体機能としては、能動的と考えられています。確かに、吸うから吐くという呼吸については、能動的に吸って、吐いて自然の状態に戻ることともいえそうです。

最初の呼吸を第一呼吸というのですが、研究論文もあって、産道をとおり抜ける時点で、もう吐ききった状態になっているのだそうです。だから、赤ん坊の第一呼吸は、吸うのだと説明します。

一方、肺が弾力性を失うと、息は吸えるのですが、うまく吐けないのだそうです。その吐くということのむずかしさを体験したので、吐くことが肺の根本的な力だと考えているという反論があります。面白いのは、実感と医者の論文であれば、実感を大切にするそうです。そのわけは、医者の話を信用できないからだそうです。医療では、昔こう習ったけれども、いま反対ということがなんとも沢山あるからです。

死ぬときに、息を吸うのか吐くのかは、どちらでもいいと思いますが、赤ん坊の第一呼吸には興味があります。きっと、ベテランの産科医やお産婆さんは、正解を知っているはずなのに、なぜこんな議論がいまさらされているのでしょうか。赤ん坊が生まれる瞬間は、それぞれ個人差があるのでしょうから、観察しているような余裕がないのでしょうか。でも、第一呼吸というようなプリミティブな話題があることを知って、なんとも楽しくなりました。

”<息の発見>から引用しました”

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2008年10月28日 (火)

クロールを修正中

平泳ぎの息つぎ

日曜日は、子供の水泳教室がないので、一日中25mプールが使えます。平日と土曜日は、18:30まで水泳教室なので、その間は小プールしか使えません。自分で勝手に日曜以外は業務時間を8:30~17:30と決めていますから、歩いて5分のスポーツクラブに行くと、どうしても時間的に小プールになってしまいます。11mの小プールは、ウォーキングコースと泳ぐコースに分かれています。最初は歩くだけだったのですが、それでは味気ないので、クロールの泳ぎ方を修正することにしました。

平泳ぎは、息つぎが楽なのですが、クロールは、どうもうまくいきません。初心者用水泳の本を何冊か読んでみたところ、なんとなく競泳選手用の泳ぎ方をしていることに気がつきました。確かに、25mくらいはなんとか泳げるのですが、それ以上になるとバランスが崩れるます。力んで無理して大きく手で水をかいたり、足で何度も水をけっていたようなのです。しばらく泳いでいなかったので、速く泳ごうとするとタイミングがおかしくなってしまうようです。

長距離をゆっくりきれいに泳ぐためには、キャッチアップと2ビートをマスターする必要があると本に書いてありました。キャッチアップというのは、両手が一瞬前で揃う泳ぎ方です。2ビートというのは、手で水をかく回数と足で水をける回数を等しくすることです。小プールで練習してみたのですが、これが結構難しく、つい前の癖が出てしまします。息つぎをしなければ、なんとかなるのですが、息つぎをするとタイミングが狂うのです。ようやく、2ビートは、意識すればなんとかできるようになりましたが、まだ、キャッチアップのタイミングがつかめません。

たまたま、日曜日の昼頃プールに行ったら、とても空いていました。コースが独占できましたから、息つぎが楽な平泳ぎを約45分1,500m泳ぎ、修正中のクロールも試してみました。少し怪しいキャッチアップでなら、50mくらいまでは息つぎができました。また、2ビートは、小プールのときよりも長い距離に向いているようです。そして、いつものように足がつったので、泳ぐことをやめて、しばらく歩き、充実した時間を過ごしました。

翌日、朝起きるとき、あまり腰が痛いので驚きました。同時に、本に書いてあった、平泳ぎは、腰を痛めるということばを思い出しました。それまでは、混んでいるプールしか知らなかったので、つい泳ぎすぎたのかもしれません。クロールの新しい泳法をマスターするまでには、もう少し時間がかかりそうです。息つぎだけを考えれば、バックで泳ぐことも可能かもしれませんが、前が見えないのですから、混んでいるときはとても無理そうです。ここは、少々腰が痛くなっても平泳ぎで通すか、怪しいクロールに切り替えるか、思案のしどころだと思います。

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2008年10月15日 (水)

受かるまでが楽しい資格試験?

宅地建物取引主任者の試験

妻が、今年の宅地建物取引主任者試験を受験するための勉強をしています。今年初めに勧めたのですが、あまり乗り気でなかったので、その気がないなら仕方ないと忘れていました。でも、どうも、夏頃からそっと参考書を読んでいたらしく、9月から本格的に試験勉強を始めました。10月19日(日)が試験日ですから、時間が少し足りないような気もするのですが、次第に気合が入ってきたらしく、最近朝4:30頃からやっています。

それを傍で見ていて、何年か前のことを思い出しました。当時は、サラリーマンで出張が多く、夜もお酒を飲む機会が多かったので、朝4:30からホテルで参考書を開いていました。宅建主任者試験を受けるのだからと、関連している管理業務主任者とマンション管理士も試験範囲が重なるので一緒に勉強していました。いやに難しかった覚えのあるマンション管理士も含めて幸いその年に3試験受かったので、つい欲が出て行政書士にトライという気になってしまいました。

3試験が終わって、マンション管理士は落ちたと思い込んでいましたから、翌日から参考書を開いた記憶があります。一年に一度の試験なので、広い範囲だとそれをカバーする時間がどうしても最後に足りなくなったのです。しかし、どうにかマンション管理士に合格したので、いよいよ行政書士の試験勉強を始めたのですが、そこには一般教養という難関が控えていました。もともと新聞などは、斜め読みしていて旬の話題に遅れなければいいくらいに考えていました。それが中学生レベルの一般教養が範囲というのですから、漢字、理科、社会などとまったく考えてもいなかった勉強範囲に広がったのです。

行政書士やマンション管理士などを職業にしていると、その資格を持っているというだけではまったく通用しません。試験ならどんなに難しくても100点取らなくても必ず合格するのですが、実際の仕事では限りなく100点でないと信用してもらえないし報酬も頂けません。行政書士事務所を開くときに決意して受験したとき以上長時間、毎日机に向かっているのですが、なかなか100点にはとどきません。専門を不動産関連にしているので、外国人登録やペットまで含まれますから、結構広範囲です。ですから、ここまで来たら繰り返し以外にないと覚悟を決めています。

資格を取るために受験をするというのは、誰に頼まれたわけでもなく、たとえ落ちても誰にも迷惑をかけません。そして、試験という目標があるので、毎日があっという間に過ぎるくらい充実しています。試験が近くなるとだんだんハラハラドキドキも楽しめます。今、妻も楽しんでいます?から、どうも資格試験は合格を目指しているときの方が楽しいようです。今年受からなかったら諦めるとか、生活をかけているような受験生に向かっては、こんな呑気なことは、勿論、口が裂けてもいえないのですが。

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2008年10月12日 (日)

引用の要件

判例

「引用とは、紹介、参照、論評その他の目的で自己の著作物中に他人の著作物の原則とて一部を採録することをいうと解するのが相当であるから、右引用にあたるというためには、引用を含む著作物の表現形式上、引用して利用する側の著作物と、引用されて利用される側の著作物とを明瞭に区別して認識することができ、かつ、右両著作物の間に前者が主、後者が従の関係にあると認められる場合でなければならない。」(最高裁昭和55年3月28日判決)

引用の要件として

①公正な慣行に合致するもので、かつ、報道、批評、研究その他引用の目的上正当な範 囲内であること(著作権法32条1項)

②引用する部分をカギ括弧(「 」)などで明確に区別すること

③出所、著作者名を明記すること(著作権法18条1項・2項)

著作権法違反の例外とされている「引用」と認められるためには、いくつかの要件がすべて満たされなければなりません。これらの要件は、著作権法や判例によって具体化されています。また、引用の対象著作物は「言語」に限られず、音楽や絵画なども対象になります。

営業上の目的で他人の著作物の一部を載せることは、「引用」として許されません。ですから、ホームページに音楽など流したりするときは、使用の許諾が必要です。そのために、音楽に関しては、JASRAC(日本音楽著作権協会)という著作権を管理し、承諾・許諾を仲介する窓口があります。

「引用」と明確に区別できない「複製」「翻案」も注意が必要です。「引用」したつもりでも、引用の要件を満たさなければ、「複製」したことになります。また、許諾を受けないで内容を要約して載せてしまうと「翻案」したことになります。どちらも著作権を侵害したことになってしまうのです。さらに、原作を不正確に引用すれば、著作物の「同一性保持権」を侵害したとして、「著作者人格権」を侵害したことになります。

営業用のホームページは当然ですが、ブログも不特定多数の人に対して、いつでも閲覧できる状態(公衆送信している)ですから、「引用」するときは「引用」の要件を必ず満たさなければなりません。出典を明示しただけでは、著作物のコピーは許されないということをいつも意識していなけばならないのです。

”<インターネットの法律問題>「小林英明」から引用しました”

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2008年10月 8日 (水)

どこに向かっているの

突然の質問

あるとき「どこに向かっているの?」と聞かれて、そのときは「流れに任せて、求められている方に」ととっさに答えたのですが、そのあと悩んでしまいました。もともと行政書士の資格が取れたら、不動産関連の実務を始めようと考えていました。マンション管理士・管理業務主任者・宅地建物取引主任者という資格を持っていたので、宅建業者の登録をして不動産について、なんらかの仕事をするという気持ちは固まっていました。

自己所有の共同住宅や駐車場を管理する会社を父が20年前に設立していたので、業者登録をして、定款を変更して、その会社を継ぎました。それからは、賃貸だけで、ホームページだけで、営業をしているのですが、とても経営として成り立っているとはいえません。でも、最初から店舗を構えるほどの資金や勇気もなく、まぁ2年間くらいは、仕方ないだろうと思っていたのです。

現実は、資格があっても、依頼がなければ、資格など何の役にも立ちません。とはいっても、資格を磨きあげなければ、実際の相談にものれないので、有り余る時間?を使って知識を蓄えようとしています。ただ一口に不動産関連といっても幅広くて、ペットや敷金返還・原状回復などの実生活に密着するさまざまなことが含まれます。誰もが、ちょっと困ったときに、すぐ弁護士に頼んで訴訟を提起するわけではありませんから、そんなときの相談相手は必要なのです。だから、実務もできて、法律もある程度アドバイスできれば、そんな困っている人のお役に立つだろうと単純に考えていました。でも、どうも最初の思惑が違っていたのかもしれません。

そんなときに「どこに向かっているの」といわれたのですから、たまりませんでした。そこで、行政書士としてはホームページで、マンション管理士としては大田区マンション管理士協議会の事務局活動を通して、たぶんどこかにいるはずの困っている人との接点を持つ努力をすることにしました。勿論、賃貸物件を探している人にも、できる限りお役に立ちたいと思っています。そのために、宅建協会大田区支部の共済会委員を受けて、業者間のお付合いにも参加することにしました。まだ、どこに向かうという答えにはなっていませんが、具体的に行動することでなにかしら答えが出るのではないかと思います。

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2008年10月 6日 (月)

懺悔

巷懺悔せんと欲する者、端坐して実相を念ぜよ

「懺悔ということは、自分の犯した罪を悔い、告白して改めることであるが、すでに犯してしまった罪をなんぼ思い返して後悔してみても、妄想でこそあれ、少しも懺悔にはならん。それよりは、罪を犯さぬ前の清浄無垢な本心に立ち返ることが最上の懺悔である。」

端坐して実相を念ずることが、最上の懺悔ということです。すなわち、懺悔の極致は、禅定にあるといっているのです。たとえば、家出した息子がいくら「悪かった」と告白してみても、謝ってみても、真実の懺悔ではありません。何よりも本性のわが家に帰ることが、最上の懺悔なのです。それは、ただ実相を念ずる禅定によってのみ得られるのです。

禅定とは、外面的には、自分の姿形を忘れて、そのもの、そのことになりきることです。内面的には、精神がしっくりと本来の無に徹して、少しも騒ぎ乱れないことをいいます。たとえば、念仏ということは、仏を心に念じ、口に仏の名を唱えることですが、唱える自分と唱えられる仏とが別々であっては、真実の念仏にはなりません。唱える自分と唱えられる仏とが、まったく一つに融け合ったところに念仏の妙味があるのです。そして、それは禅定ともいえるのです。

定水澄清なれば心珠自ずから現ず

禅定の水が澄んでくれば、なにもしなくても自然に自性の球は光ってきます。なるほど真実の自己とは、これであったのかとわかるためには、坐禅が一番の近道です。ああだろうか、こうだろうかと思案分別するのではなくて、一切の思案分別を捨てて坐るのです。深く三昧に入って、心の波を静めてゆく以上の方法はないのです。

社会生活でも、禅定は大事です。たとえば、役者が演技をするにも、その役になりきって世間事に心を乱さないようにしなければなりません。スポーツ選手が競技になりきるのも禅定の力と考えられます。ですから、懺悔や念仏という功徳もすべて禅定の中に入ってしまいます。ということは、また禅定からすべての功徳が出てくるということでもあります。

”<坐禅のすすめ>から引用しました”

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