差別と平等
平等が具体的になるには、差別の姿でしか現れようがない
{平等とは、一般に思われているように、何もかも横並びで社会的差別や規制をすべてなくしてしまった状態を言うのでは、決してない。また、差別は、人為的な優劣や権利の有る無しに関わって、それに苦しむ者の側からだけ主張されているものとも、全く違う。}平等と差別は、お互いに対立した価値観ではないのです。実際には、差別の中にも平等が貫いていたり、平等の上にも差別が顔を出したりしているのです。
たとえば、本当に何も見えないような真の暗黒の中では、一切の差別が消えています。すべてが、皆平等に闇一色になるからです。鼻先に人がいてもわからない中では、男女とか、地位の上下などは、すべて消えてなくなります。しかし、その暗闇に一点でも明かりが射しら、姿かたちが見えるようになります。まさに、具体的な差別が現れるのです。ですから、差別は、明かりのさしている場所にだけ存在するのです。
人間の肉体の大部分の働きは、一切を平等に生かそうという大きな力の計らいの中にいます。平等の働きには、果てしがないのです。そして、その中で、「我」という認識の明かりを照らしたところにだけ、「我」という姿を見出すのです。「我」という差別が現れるのです。つまり、果てがない平等の中では、差別はその一作用にすぎないということです。
差別は悪、平等は善というように、単純に割り切ることはできません。たとえば、庭の草花にも、畑の人参にも、自然(天)の働きは、平等におよんでいます。しかし、我々は、その天の働き(平等性)だけを取り出すことはできません。天は、いつでも、草花や人参といった個々の姿に限定(差別)することでしか、その平等性を現すことができないからです。つまり、平等が具体的になる時には、いつも差別の姿でしか現れようがないのです。
{人はそれを「差別」の方から見たり、「平等」の方から見たり、また、「差別」「平等」一体に見たりする。どのように見ようと、結局は人間の認識上に照らされた「明」の一部分である。「平等」そのもの全体は永遠の「暗」のうちに姿を隠したままだ。・・・結局、個々の「差別」を、嫌わず避けず、正しく受け尽くしてゆくことでしか、「平等」を確認してゆく道はないのである。「差別」と「平等」を対立的に捉えて、いたずらに「差別」ばかり悪者にしていると、かえって、私たちに本来そなわった肝心の平等性まで傷つけることになる。ご用心である。}
”<禅に問う>から引用しました”
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