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2008年11月

2008年11月29日 (土)

差別と平等

平等が具体的になるには、差別の姿でしか現れようがない

{平等とは、一般に思われているように、何もかも横並びで社会的差別や規制をすべてなくしてしまった状態を言うのでは、決してない。また、差別は、人為的な優劣や権利の有る無しに関わって、それに苦しむ者の側からだけ主張されているものとも、全く違う。}平等と差別は、お互いに対立した価値観ではないのです。実際には、差別の中にも平等が貫いていたり、平等の上にも差別が顔を出したりしているのです。

たとえば、本当に何も見えないような真の暗黒の中では、一切の差別が消えています。すべてが、皆平等に闇一色になるからです。鼻先に人がいてもわからない中では、男女とか、地位の上下などは、すべて消えてなくなります。しかし、その暗闇に一点でも明かりが射しら、姿かたちが見えるようになります。まさに、具体的な差別が現れるのです。ですから、差別は、明かりのさしている場所にだけ存在するのです。

人間の肉体の大部分の働きは、一切を平等に生かそうという大きな力の計らいの中にいます。平等の働きには、果てしがないのです。そして、その中で、「我」という認識の明かりを照らしたところにだけ、「我」という姿を見出すのです。「我」という差別が現れるのです。つまり、果てがない平等の中では、差別はその一作用にすぎないということです。

差別は悪、平等は善というように、単純に割り切ることはできません。たとえば、庭の草花にも、畑の人参にも、自然(天)の働きは、平等におよんでいます。しかし、我々は、その天の働き(平等性)だけを取り出すことはできません。天は、いつでも、草花や人参といった個々の姿に限定(差別)することでしか、その平等性を現すことができないからです。つまり、平等が具体的になる時には、いつも差別の姿でしか現れようがないのです。

{人はそれを「差別」の方から見たり、「平等」の方から見たり、また、「差別」「平等」一体に見たりする。どのように見ようと、結局は人間の認識上に照らされた「明」の一部分である。「平等」そのもの全体は永遠の「暗」のうちに姿を隠したままだ。・・・結局、個々の「差別」を、嫌わず避けず、正しく受け尽くしてゆくことでしか、「平等」を確認してゆく道はないのである。「差別」と「平等」を対立的に捉えて、いたずらに「差別」ばかり悪者にしていると、かえって、私たちに本来そなわった肝心の平等性まで傷つけることになる。ご用心である。}

”<禅に問う>から引用しました”

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2008年11月24日 (月)

入管法に係る講習会(11/21)

届出行政書士としての注意点

東京入国管理局の審査管理、永住審査、就労審査の各部門による国際部の講習会に参加しました。実務に関してホットな情報が聞けるからです。各部門1時間づつの講義です。

審査管理部門からは、基本的な点の注意がありました。たとえば、神奈川在住の場合は、申請は横浜支局にするなどです。しかし、会社が東京にあり、ほとんどが東京在住で、たまたま神奈川に住んでいる場合などの一括申請も受け付けないのかという質問に対して、迅速な処理が目的なので、そんな場合は、東京で申請を受けるし、つねに実体に即した対応をするとの返答でした。本社が東京で、まだ登記していない大阪支店の場合でも、実体に即して、その申請は、大阪でしなくてはなりません。

本人署名でないと受理できない書類に、手数料納付書があります。納税者は、本人ですから、必ず本人の署名が必要なのです。行政書士が、安易に代わりにサインするようなことは許されません。

不許可処分ついて、理由の質問できるのは本人です。たとえば、配偶者から結婚破綻の連絡を受けて不許可にしたようなケースでは、本当の理由説明に困るようです。そんな時に限って、本人と同行してきた行政書士が、執拗に理由説明を求めるのだそうです。実質的な結婚生活が原則ですが、永住許可取得後の離婚などが増えていますし、偽装婚の通報も多いので、審査は慎重にしているのです。

永住者資格の審査は、6か月くらいかかっているようです。その間に、在留期限が切れると困りますから、更新申請も同時にしておかねばなりません。また、在留期間の要件を審査がしばらくかかると見越して申請するケースがあるようです。たとえば、10年だった場合、申請時にその要件を満たしていなければ、その時点で審査の対象にならないので、注意しなければなりません。

インドネシアとの2国間協定による看護師と看護福祉士の受入れがありました。8月に200名くらいが来日していますが、6か月の研修後、3~4年間に日本の国家資格を取得しなければならないそうです。また、看護福祉士は、基準省令の医療の在留資格にあたりません。来年は、フィリピンからの受入れもありますが、仕事をしながら資格を取らなければいけないというのも大変そうです。

来年卒業見込み留学生の就職関係の申請を、例年より早く受け付け始めました。IT告示があるので、文科系でも、日本の大学卒業であれば、SEなどの職種も可能です。その時は、技術ではなくて、人文知識・国際業務の在留資格になるとのことでした。また、面白かったのは、外国企業の部長以上で、投資・経営の資格で在留している場合、日本の会社と合併などした時に、メイドはどうなるのかです。認めるしかないというのが、審査官の考えでした。

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2008年11月19日 (水)

投機

機に投ず

投機は、本来は禅語で、修行者が真理の世界に参入して道と合一する体験を指した言葉だったことを知りました。要するに、本来の投機とは、からだ一つにもどる勇気のことなのです。お金はなくても、学歴がなくても、人の「いのち」は営々とつづいていきます。自然と一体になって生きているこの「いのち」に目覚めるためには、身につけてきた一切の概念を捨てよと、禅はいっているのです。

投機的な資産の運用は、必ず成功するとは限らないのですから、からだ一つにもどる勇気とどこかでつながるのかもしれません。投機というのは、「お金が空を飛ぶ」事態だとアダム・スミスも怖れたようです。新しいお金の用い方によって、社会的な地位があり、優れた倫理を兼ね備えたお金持ちの世界が崩れることが心配だったからです。そして、お金というのは、投機によって自己増殖しますから、心配が的中して、お金持ちに人徳や倫理を求める必要がなくなってしまいました。

お金で買うという行為は、基本的に等価交換に支えられています。しかし、等価であるかどうかが、どうしてわかるのでしょうか?自分の「いのち」と等価なものなど、この世の中に存在するのでしょうか?楽をして少しでも有利に交換しようとなどとするから、だまされたりするのです。投機で得たお金は、いつか投機で消えていくのだと思います。

お金をもっていれば、コンビニなどでは、子供も大人と対等になります。マニュアルどおりに扱ってくれるからです。将来のためにと、実際に子供に投資をさせている親もいるようです。お金を得ることが、いかに簡単で安易なことかと誤解してしまうのではないでしょうか?リスクは、すべて親が負ってくれるのですから。現代のお金持ちが、利子や投資でますますお金持ちになるにしても、それを子供に教えていいのでしょうか?

”<無功徳>から引用しました”

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2008年11月13日 (木)

ホモ・ルーデンス

ホイジンガ

人間の働きや行為の本質は何か、人間存在の根源の態様は何か、という問いに対して、そこに共通する「遊び」を引き出し、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)という概念を確立したのは、オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガです。その著書「ホモ・ルーデンス」が刊行されたのは、1938年65歳のときでした。

ホイジンガは、遊びは文化より古い、「ホモ・ファーベル」(作る人)よりも「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)が先にあるとして、「文化こそ遊びから生まれる」といっています。遊びには、社会や学校のメタ・モデルがあり、遊びには、哲学や市場のメタ・ルールがあるというのです。そして、遊びによりすべての人間行動をみていくのです。

ホイジンガは、「最高の真面目さをもって事を行うだけの価値があるのは、ただ神に関する事柄だけなのです。これに対して人間はただ神の遊びの具になるように、というので創られたのです。だから人はみな男も女もそういうあり方にしたがって、もっとも美しい遊びを遊びながら・・・生きていかなければいけません」というプラトンの言葉を引用しています。

自分の今やっていることを「遊び」と思っている人は少ないようです。まして、仕事を遊びとはとても思えずに、あくまで別々と信じている人が多いのではないでしょうか。仕事は高尚な行為で、遊びは仕事のための休息と錯覚しているのです。ホイジンガは、本当は、どちらも遊びだと教えてくれているのです。確かに、仕事ができるといわれる人ほど遊びにも熱心なようです。そんな人ほど、きっと仕事と遊びを無意識に区別していないのでしょう。

サラリーマンが企業に就職するのも、単なる偶然にすぎません。生まれたときから、どこに入社して、またどこに転職するかなどと決まっているわけはなく、サラリーマンになるというのも、たまたま偶然だったはずなのです。まして、途中で、大きな病気でもすれば、サラリーマン人生も大きく変わります。それなのに、平気で堂々と天職などと公言したりするのを聞いたりすると、なんともナンセンスで可笑しくなります。

「仕事に人生を入れるな 人生に仕事を入れよう」というくらいの気持ちで仕事を考えておかないと、せっかくの人生の貴重な時間をづるづる使ってしまいます。サラリーマンにとって、企業とは「貸しもないけれど、借りもない」という関係にすぎません。それなのに、退職した後までも、会社主催の親睦会などに出かけて行って、旧上司にお愛想をいったりしているのは時間の無駄だと思います。まぁ、それ以外にやることがなくて、お愛想も「遊び」で、本人が心から楽しんでいるのなら、よけなお世話なのですが。

”<豊かさの探求>から引用しました”

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2008年11月 7日 (金)

教養がある

価値の遠近法を身につける

教養と知識は違います。教養については、あらためて考えると、どうもこれという決まった定義はないようです。一般教養のように、大学の専門課程以前の広範な基礎知識を指すのでしょうか。あるいは、洗練された会話や身のこなしができる能力なのでしょうか。教養がない人というのは、品位や人格に問題がある人間という意味ですが、では、品位があって人格が優れていれば教養があるといわれるかというとそうでもありません。ただ、教養には、古典やハイカルチャーを身につけているのが伝統的な要素となっていることは確かなようです。

「教養とは、価値の遠近法を身につけること」ということもできます。つまり、本物と偽物を見分ける力を身につけることが大切というのです。たとえば、「絶対に捨ててはいけないもの」と「あってもいいけどなくてもいいもの」といった異なる価値を自分の中に据えることができるかということです。

「教養というのは、知についての知、あるいはおのれの無知についての知のこと」という意見があることを知りました。つまり、知的探求を行っている自分自身の知のありようについて、上から鳥瞰できることが「教養がある」ということなのです。「自分の置かれている文脈を見る。なぜ自分はこのことを知らずにきたのか。なぜ知ることを拒んできたのかという、自分の無知の構造に目を向けた瞬間に教養が起動する」と説明されています。確かに、自分がわかっていないことが、なんであるかをわかるというのは、とてもハイレベルだと思います。それがわかれば、次に、なにをしたらいいかわかるのですから。

「教養というのは、いわば図書館全体の構成を知ること」とも、たとえられています。図書館にある本は、情報化された知識です。ですから、図書館全体の構成を知っていれば、自分が読んだ本がどこにあり、読むべき本がどこにあるのかがわかるというのです。自分の知識がどれほどのもので、自分が知らないことがどういう広がりともっているかを知ることができるということです。そして、「このことについてわからないのはなぜなのか」という問いをたてられるようになった段階は、かなりの知的な達成とされています。

大人の教養もだんだんにおかしくなってきていて、「大人らしくふるまう」という建前が崩れているようです。大人には、過去のその時々の自分がぜんぷ同居していますから、もののはずみで小学生の自分が現れることもあるでしょう。今まで生きてきた年数分だけの自分が一人の人間の中に存在しているのです。ですから、「大人らしくふるまう」という建前を崩したら、たとえ老人でも本音をむき出しにしてしまったら、すぐにただのこどもに返ってしまうのです。

”<大人のいない国>から引用しました”

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2008年11月 4日 (火)

早く読まないと大人になっちゃう

読むべき本を読むべき時に読む

子供の頃に読んで感動した本を、大人になって読んだら、まったく感動を覚えなかったというエッセイを読みました。だから、少年少女全集の「早く読まないと大人になっちゃう」というキャッチコピーにとても感心したともいっています。確かに、本からの感動とはそうしたものかもしれません。でも、あまり幼い頃のことはよく覚えたいないので、「三銃士」「即興詩人」などを大人になってから読み返してみてもとても面白かったような覚えがあります。子供の頃にに読んだ内容をほとんど忘れていたので、はじめて読むような感覚で読んだからでしょうか。

本を買って読むとだんだんに溜まる一方なので、読んでしまったらすぐ処分する癖がついてしまいました。たとえば、藤沢周平の小説は、ほとんど読んだと思いますが、今、手元には1冊もありません。最初の1冊に出会ったときは、その物語の雰囲気にすっかり心地よく浸って読んだ記憶があります。きっと、あのときが藤沢修平という「読むべき本を読むべき時」だったのでしょう。

読書は教養の土台だが、教養は大局観の土台である

安岡正篤の本は、ほとんど読んでいますが、最近もう一度読みたくて、書店にあると買い足しています。そして、以前に読んだ内容を断片的に思いだしながら、精読しています。しかし、今、読まなければいけないという本も多いので、いつも最後まで読み切れないで積んであります。時間がいつかできるでしょうから、そのときは腰を据えてゆっくり読もうと楽しみにしています。

いろいろな人間がいるということをなんとなく本を通して知ったような気がします。どんなに社交的でも、現実の人生ではそれほどの人数には出会えませんし、まして、深いお付合いなどとてもできません。映画やテレビの映像もいいのですが、眼で見えてしまうので、なんだか想像力というかイメージが限定されてしまうようです。一方、本の登場人物については、作者の思惑を無視しても、読者が勝手にどんどんとイメージを膨らませることができます。

大局観というかマクロ観がないと、ここ一番というときに判断を間違えることがあります。たとえば、近視眼的に、目先だけの利害得失や肉親だからというようなことで判断することです。必ず、時は流れますし、人間の考え方もどんどん変わるのです。今、正しいとされていることも、将来も正しいとは誰もいい切れません。専門家に相談はできるでしょうが、どうしても最後の決断は自分が下さなければならないはずです。抽象的なマクロ観が、具体的な大切な結論を導くのです。

”「書くの壁」から引用しました”

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2008年11月 3日 (月)

安岡正篤のことばから

教学半(なかば)す

我々は学んで初めてその足らざるを知り、教えて初めて到らざるを知る。そこで自ら反(かえ)り、強(つと)めるのだ。教えることは学ぶことであり、学ぶことによって教えることができる。

「宅建主任者試験を受験するので、わからないところを教えて欲しい」と頼まれて、ときどき相談にのっています。すると、自分でも結構あやふやな個所があり、コンメンタール借地借家法などあらためて読み直すことになりました。

不尽の妙味

偶然を人生の事実として平たく考えてみると、これまたなかなか面白いものである。これがないと、杓子定規的になって味わいがない。偶然に人に会い、偶然に書を読む。人生すべて偶然の連結と考えると、却って不尽の妙味がある。

仏教的には、縁とか因果ということなのでしょうが、確かに、たまたま偶然とも考えられます。偶然の積み重ねがあって、今の自分があり、これからもまた偶然の中で生きていくのです。頑なに期限のある目標を設定して、それを達成するために一喜一憂しているだけが人生ではないと思います。

薬石

我々に有益な善言を「薬石」という。薬石は良くその病を治すからである。人は皆、身体のために薬石は欲しがるが、案外、心の薬石を求めないものだ。

力量

太い筆で細かい字を書くーこれが人生を渉る秘訣だ。然し、それには充分の力量がなければならない。

悲しむ

悲しむということは人間の情緒のもっとも尊い働きの一つである。人間、他人のことを悲しめるようになるには、よほど精神が発達していなければならない。人が自分の親・兄弟・子供ばかりでなく、友のことを、世の中のことを、国のことを悲しむようになってこそ、はじめて文明人であり、文明国である。

安岡正篤が好きで、今までほとんど読んでいたつもりですが、その中になかった?ことばを忘れないために抜き出してみました。とても短いので、真意が伝わらないようなことばもありますが、また大きなはげましをもらったような気がします。

”<こころに書き写す言葉>から引用しました”

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2008年11月 2日 (日)

ペット紛争に関する法的諸問題

行政書士ADRセミナー

ペット訴訟を専門にしている弁護士が講師だったので、楽しみに参加しました。13:30~18:30という長時間(2回休憩)が、いつものように眠ることもなく、あっという間にすぎました。内容は、講師自身が担当した判例解説からペット条例のポイント説明までとても幅広かったのですが、ペット紛争で注意しなければならない心得などが随所にあって参考になりました。特に、弁護士の口から「ペット訴訟は弁護士費用などを考えるとあまりすすめられないので、できるだけ話合いによる解決が望ましい」と聞いたことが心に残りました。

ペットは、法律上は物です。ドイツでは、物に準じた扱いとされていて、憲法でも動物愛護の精神が謳ってあるそうです。日本で最初の判例としては、明治45年交通事故による被害犬の購入金額500円が認められています。慰謝料については、ようやく昭和30年代になって認められはじめたようです。その額も、講師が担当した医療過誤裁判では、60万円まで認められるようになってきました。ただ、裁判官によって、ペットについての考え方がまちまちなので、訴訟すれば必ず勝てるとはいいきれないそうです。ペットへの愛情の度合を金銭で算定するのはなかなか難しいのでしょう。

動物占有者責任(民法718条)の飼い主の免責については、大正2年に判例が1件あるだけです。免責は認めないで、過失相殺で調整しているようです。たとえば、犬同士の喧嘩を止めようとして噛まれた原告と前にも人を噛んだことのある犬のリードを放して喧嘩をさせた被告に対して、原告6割、被告4割の過失とされた判例があります。この場合は、原告が犬にリードをつけないでいたからです。このとき、原告の犬は、その喧嘩には加わっていなかったのですが、そう判断されました。

意外だったのは、ペットショップとのトラブルて裁判になった例は少ないことです。不特定物売買か、特定物売買かという法律上の問題もありますが、買主がいかに納得するかという問題だからでしょう。ペットへの愛情がでる前なので、冷静な話合いで解決ができるからかもしれません。また、外国のように、店頭で衝動買いをさせないために、ペットの店頭売りを廃止する方向で検討もしているようです。

獣医療過誤は、昭和40年代から判例があり、ここ数年増えています。最近の多摩地区の動物病院の集団訴訟では、慰謝料20万円と購入価格(物的損害)50万円が同時に認められるなどしています。カルテの開示請求だけでも、人間なら個人情報保護法を根拠にできますが、ペットの場合は、信義則を根拠にするのでそう簡単ではありません。しかし、医療ミスがなくても説明義務違反を認め慰謝料30万円、死亡していなくても重度の障害が残ったとして慰謝料20万円などの判例がでてきています。また、簡易裁判所からは複雑な訴訟は移送されてしまいますが、大きな地方裁判所では医療集中部で扱う事案が増えているようです。飼い主も治療についての知識を持って、獣医との積極的な会話をすることが、ペットを護るために求められているのです。

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