1枚の絵
年をとると記憶は
<「老い」は人によって、ひとつの自然過程である。・・・「老い」が自然過程であるということは、大なり小なり人はみな「惚け」てゆくということである。>
同じ人間なのに、同い年なのに、「老い」が前面に出ている人いない人、「惚け」ている人いない人、という激しい違いがあるのはなぜなのでしょう? 遺伝、緊張感、家族の深い絆など、さまざまな理由が考えられます。自然過程なのだから、いつか「同じ状況」になると割り切ろうとしても、現実には、「同じ状況」にならないことのほうが多いのです。そうはいっても、運動を毎日して身体は健康のようでも、着実に毎日「老い」ていくことはほとんど実感としてわかるはずです。ですから、「老い」がその姿をすべてにあらわす前に、「惚け」を突然感じる前に、しっかりと自分のこころの備えだけはしておくべきです。誰にでも公平に「惚け」るチャンスはあるのですから。
<20歳の青年にとって10年の差は人生の半分に等しい。しかし、60歳の人間にとって20歳のときの記憶と30歳のときの記憶とはそれ以後に生きた人生の長さが4対3である。89歳ともなればほとんど同じ距離であろう。すなわち記憶装置は、徐々に縦並びから横並びに変わってゆくといってよいだろう。年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は、1枚のピクチュア(絵)になるということだ。>
まだ、記憶が横並びになっているという気はほとんどありませんが、いつか1枚の絵になるだろうということは想像できます。たぶん、満天の星空の星のように、懐かしい自分にとって忘れられないシーンがいっぺんに見えるのでしょう。最後といっているので、死ぬときかもしれません。あるいは、「惚け」て楽になったら、そうなるのかもしれません。いづれにしても、大切な大切な思い出は、きっと大きくて、光り輝いているはずです。無理して、それほど早く見たくはありませんが、その絵を見ないで死にたくもありません。
”<老いの空白>から引用しました”
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