« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009年1月

2009年1月28日 (水)

1枚の絵

年をとると記憶は

<「老い」は人によって、ひとつの自然過程である。・・・「老い」が自然過程であるということは、大なり小なり人はみな「惚け」てゆくということである。>

同じ人間なのに、同い年なのに、「老い」が前面に出ている人いない人、「惚け」ている人いない人、という激しい違いがあるのはなぜなのでしょう? 遺伝、緊張感、家族の深い絆など、さまざまな理由が考えられます。自然過程なのだから、いつか「同じ状況」になると割り切ろうとしても、現実には、「同じ状況」にならないことのほうが多いのです。そうはいっても、運動を毎日して身体は健康のようでも、着実に毎日「老い」ていくことはほとんど実感としてわかるはずです。ですから、「老い」がその姿をすべてにあらわす前に、「惚け」を突然感じる前に、しっかりと自分のこころの備えだけはしておくべきです。誰にでも公平に「惚け」るチャンスはあるのですから。

<20歳の青年にとって10年の差は人生の半分に等しい。しかし、60歳の人間にとって20歳のときの記憶と30歳のときの記憶とはそれ以後に生きた人生の長さが4対3である。89歳ともなればほとんど同じ距離であろう。すなわち記憶装置は、徐々に縦並びから横並びに変わってゆくといってよいだろう。年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は、1枚のピクチュア(絵)になるということだ。>

まだ、記憶が横並びになっているという気はほとんどありませんが、いつか1枚の絵になるだろうということは想像できます。たぶん、満天の星空の星のように、懐かしい自分にとって忘れられないシーンがいっぺんに見えるのでしょう。最後といっているので、死ぬときかもしれません。あるいは、「惚け」て楽になったら、そうなるのかもしれません。いづれにしても、大切な大切な思い出は、きっと大きくて、光り輝いているはずです。無理して、それほど早く見たくはありませんが、その絵を見ないで死にたくもありません。

”<老いの空白>から引用しました” 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月27日 (火)

あなたは大人ですか、子どもですか?

大人になれない

突然、「あなたは大人ですか、子どもですか?」と問われたら、何と答えますか? 実際に大学でこの「問い」をしたことがあり、そのときにほとんどが「子どもです」と答えたそうです。もう一方で、「まだ若いと思うひと、手を挙げて」というと、高校生ぐらいでも、1割くらいしか手が挙がらないそうです。「若くないけれども、まだ子ども」が圧倒的に多いということは、学校教育という学習の期間がどんどん長くなり、純粋な子どもである期間よりも、子どもから大人へ移行するという「子どもか大人かわからない期間」が大幅に長くなったためかもしれません。

さらに、生まれたときからずっと情報社会なので、幼いときから、大人と同じ情報にふれるようになったから、とも考えられます。身のまわりのことから学びはじめ、そうして、社会全体のほうへだんだんに拡げてゆくというような「大人になる感覚」のなかで育つということがなくなってしまったからです。

<学校を卒業して会社に入ってもやはり最後まで「階段」を昇らねばならず、つねに「成績」が問題とされ、ついに「窓際」に追いやられるまではほとんど学校のようなものになった。いわゆる学校化社会(スクーリング・ソサエティ)である。そのなかでひとは、いつも途上にある者として、生涯じぶんをまるで通過儀礼中の存在であるかのように感じるという、奇妙な社会である。中高年も未成年もみな、じぶんが大人か子どもか分からない。>

それでも、高齢化社会を迎えて、いままで誰も経験したことのない人生を生き抜かなければなりません。平均寿命が伸びたので、老後は人生のおまけではなくなったのです。問われて、とっさに「大人です」と答えながらも、内心で「こんなのが大人なのか?」と迷っているひとも多いはずです。他人には、どう見ても大人にしか見えなくても、本人は「子ども」の場合があるということです。

”<老いの空白>から引用しました”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月21日 (水)

スーパーバイザー養成講座

スーパービジョンの必要性

東京都行政書士会の2日間の研修を受講ました。ADRに関わって5年目の1期生から3期生までが一緒でしたが、スーパーバイザーの研修は、みんながはじめてですから、とまどいはありませんでした。しかし、スーパーバイザーという役割が、深い実務経験と重い責任をともなうことを知って、身が引き締まる思いはしました。ADRセンターの理念を遂行するために組織として必要なのでしょうが、実際に誰もがなれるような役割ではないことが、だんだんにわかってきたからです。

スーパーバイザーとスーバーバイジーは、スーパービジョンをします。ADRセンターの組織では、スーバーバイジーとは、対人援助職(感情労働者)である調停者・ケースマネジャー・トレーナーを指します。感情労働者は、「共感もえつき」や「紛争感もえつき」までいたらなくても、感情的にとても疲弊します。ですから、スーパービジョンをして、専門性の維持や危機管理をする必要があるのです。たとえば、感情労働者が、理想と現実のギャップに悩んだり、スキルにはしってしまったり、言い争っていた言動と同じ言葉を身の廻りで聞いたりして傷ついてしまったりしたときに、スーパービジョンをする必要があるのです。そうすることで、感情労働者は、自らの役割や機能を確認し直して、さらに専門性を発展させることができるようになります。

スーパービジョンの形態は、個人、グループ、セルフ、クライアントの前のライブなどがあります。日本では、スーパーバイザーがあまりいないこと、スーパーバイジーとの相性もあって出会いがとても難しいこと、などの理由があるために、スーパービジョンが進んでいないようです。しかし、だんだんとスーパービジョンの必要性が認識され始めてはいます。たしかに、プロの感情労働者が、いざというときに駆け込んでも、しっかりと受け止めてくれるようなスーパーバイザーは、そんなにはいないはずです。そして、スーバーバイジーは、通常、数人のスーパーバイザーをもっているということです。さらに、そのスーパーバイザーが、自分のスーパービジョンを受られるようなスーパーバイザーが必要になるのだということを聞いて驚きました。感情労働者というのは、本当にタフな職業だということなのでしょう。

スーパービジョンとカウンセリングや心理療法とは、少し違いがあります。カウンセラーは、クライアントの自己決定に関して、めったに責任を問われません。しかし、スーパービジョンは、スーパーバイザートスーパーバイジーが一緒に考えるので、その決定に関して、スーパーバイザーにも責任が出てくるのです。たとえば、スーバービジョンの記録を必ず残します。そうすることで、スーバーバイジーの目標である自己の気づきや能力を高める手助けをするのです。

研修では、守秘義務をいうことが強調されました。「スーパービジョンの課題」を講師に提出して、その課題をもとにしたグループをつくり、実際に自分の提出した課題についてのスーパービジョンをロールプレイなどしたからです。そのスーパービジョンの会話を録音して、あとで聞きながら、グループでいろいろ議論もしました。相手の欠点は、よく見えるのですが、自分については、ほとんどわかっていないことを指摘されて、改めて感じることがありました。とりあえず、ADRの養成講座を受講しましたが、その結果、はっきりわかったことは、「いかに未熟で、話を聴けていないか」ということです。これからも、自信はありませんが、その事実だけは忘れないようして、日常も含めて、「聴く」ことのトレーニングし続ける覚悟です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月11日 (日)

馬鹿を見るのは善人?

善人とは誰のこと?

「偽善」は、嘘っぽい、きな臭い、などのイメージがつきまといます。その一方で「善人とは?」、とあらためて問われたら、なんと答えますか? 孔子は、「10人のうち5人がほめれば善人だ」などといっているようですが、あまり善人の説明にはなっていません。しかたなく、偽善と対比して、<偽善の偽のパーセンテージがゼロにまで薄められた人のことを善人となづけることができる>とでもいうしかなさそうです。

偽善にもランクがあります。たとえば、善に限りなく近い偽善、偽に近い偽善などがです。ですから、偽善には、必ずいくらかかの善が含まれていることになります。ということは、その善の側だけに焦点をあてていけば、一般的な偽善のイメージが変わりそうです。もし、そう考えられたら、今まで、偽善ぽくって照れくさいなどと躊躇していた善いおこないを実践することができるようになります。

「あの人はいい人だ」というような表現は、「善人は馬鹿を見る」と、ちよっとニュアンスが異なります。いい人というのは、自己主張しないために周囲と摩擦を起こさない、特徴がなくてつまらない、などの覇気のないイメージがあります。一方、善人は、すぐ人に騙されるとかいわれて似ているようですすが、善人だって、騙されようとして騙されたわけではないのです。運悪く騙されてしまったので、他人から見て、善人になってしまったということなのです。

ほとんどの人は、善いおこないをすることを嫌っているようです。「善人は馬鹿を見る」ということばの影響もいくらかあるかもしれません。心の奥では、「自分が善人になって損をするのが嫌なので、ぜひとも他人に損をしていただきたい」「自分は嫌だけど、他人は、善人になって、世の中のために役立ってほしい」と考えているのです。しかし、もっと深い心の奥底では、「善いおこない」イコール「損すること」と決めつけているだけのようです。まぁ、どちらにしても、善いおこないをしようという気持ちがないことに変わりはないのです。

”<偽善入門>から引用しました”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »