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2009年2月

2009年2月22日 (日)

自転車の過失割合

ADR専門分野

行政書士会の研修会に参加しました。ADRセンターでは、認証されたら、まず、4つの分野の調停による紛争解決を扱うことになっています。その1つが、自転車に関する紛争なので、専門分野としての研修が行われたのです。講師は、弁護士で、自分の体験を含めて丁寧に説明してくれました。13:30~18:30の講義でしたが、面白かったので、居眠りする暇もありませんでした。自転車の問題については、弁護士会でも注目しているようですが、自動車と違って、類型化が難しく、判例も少ないので、対応が進んでいないということでした。

自転車対自転車、自転車対歩行者の判例について、講師が用意してくれた28事例を見ていきました。自転車は、軽車両ということが、道交法で規定されています。ですから、自転車と自転車の場合は、自動車事故に準ずるとも考えられます。しかし、自転車と自動車には、免許のあるなし、自転車の動きの機敏さ、自賠責保険のあるなしなどのさまざまな違いがあります。そうすると、まったく同じようには考えられないので、よけいに判断が難しくなるのです。意識している人は少ないはずですが、人は右、車は左という対面通行ルールは、事故があると、判断の基準になります。歩行者が突然に飛び出すという事故でも、歩道では、ほとんど自転車の責任になるようです。

自転車事故があったら、なるべく早く警察に届けて、 事故証明を取らなければなりません。自転車の場合には、本当に事故があったのかどうかがはっきりしないことがあるからです。たとえば、目撃者がいなかったりしたら、被害者が実際に事故があったという事実を立証しなくてはならないのです。たとえ、診断書などがあっても、それで事故があったという証明にはなりません。自転車事故でも、警察は、人身事故として処理してくれます。

傘をさしていたり、携帯電話をしていたりして、片手運転をしていると、「種々な事態につき対応できない危険な走行方法であった」として、100%自転車の過失という判例があります。特に、携帯で話しているときは、意識水準が下がりますから、注意力も散漫になり、とても危険なのです。

自転車による追突事故は、自転車は無音ですから、前を向いている歩行者には避けようがありません。しかし、正面衝突は、歩行者にも前方注意義務がありますから、危険を感じたら回避しなければならないはずです。面白いのは、自転車と自転車、自転車と歩行者、どちらの場合も、お互いが意識して避けないで衝突したという事故が増えていることです。判例では、なぜかよくjわかりませんが、原告自転車の後方に歩行者を発見した被告自転車が一時停止すべきであったとして、被告自転車に過失を6割にしているような事例もあります。

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2009年2月12日 (木)

一発勝負

自分の間

行政書士のホームページを作成中です。その中で、どんな風に依頼に応えるかなどを、Q&Aで、具体的に表現することにしました。そこには、自分らしさを出したいという願いがあります。インターネットでは、お互い顔を合わせないので、微妙な雰囲気などを感じ取れません。ページ・レイアウトのセンスやそのフレーズだけで判断するしかないのです。そこで、せめて、一人ひとりを大切にして、そのつど一発勝負をするのだという意気込みだけでも、イメージで伝えられたらいいなと思います。

自分の足場をしっかりとさせるような間の取り方も大事です。どんなに熱心で一生懸命でも、依頼者の本来の要求を満たさなければ、何にもなりません。逆に、だからこそ、その要求にあまりにのめり込み過ぎたり、引きつけられ過ぎたりしてはなりません。自分の足が地について立っていないといけない、ということです。熱意だけでできるほど、行政書士の業務は、甘くはないのです。ちょうど、そんなときに、この対話と出会いました。

「大鼓とか小鼓とか笛とか太鼓とかそれぞれの役が、別々に精魂を込めて稽古をしているのです。それがある日、全員が舞台の上で出会って、お互いに自分の決められたことをやるのです。指揮者もいないし、互いに合わせたり譲り合ったりなんていうことは絶対しません。自分を徹底的に主張し合って演奏すると、最終的に一種の不思議な一体感みたいなものが現れる。日本人には個人主義はないと言われますけれども、お能をやってみると一種の個人主義で成り立った芸術だと思います。決して追従しないし、一緒に合わせようとか横並びになろうなどということはしなくて、それぞれが強烈に自分を表現しようとするわけです。その共感が、ある一瞬成立しますと素晴らしいものになるし、成立しませんとガタガタになる。成立した時のエクスタシーが忘れられないから続けているのではないかと思います。

成立しない時もありますか。

ガタガタになって誰かが脱落してしまいます。でも、誰も助けません。助けようと思えば、ちょっと自分の間をずらしてやればいいわけですが、知らん顔してどんどん進んでいってしまう。 そうじゃないと自分が脱落する。」

今、しなければならないことを一発勝負で真剣にすると、ここまでしなくてはならないのです。やり始める以上、精魂を込めて稽古をして、依頼者と一緒に、自分に与えられた役目をやり続けます。

”<心理臨床対話>から引用しました”

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2009年2月10日 (火)

感情労働

労働という面から光をあてる

<感情労働というのは、職務内容に沿ってそれにふさわしい感情の状態や表情をつくりだす、そんな感情の自己管理を要求されるような仕事のことである。言いかえると、作業じたいはあきらかに労働なのだが、じぶんの労働がさし向けられている相手に対して、まるで家族か友人か恋人のような親密なつきあい方ををしなければならないような仕事のことだ。>

感情労働には、燃えつきや共感疲労などのリスクがともないます。仕事に自分を同一化しすぎて燃えついたり、感情のひどい消耗などをする場合があるのです。そんなときには、スーパービジョンを受けるとか、信頼できる人に話を聞いてもらったりします。あるいは、「使命」といった精神的な意味で自分を励ますのではなく、「感情労働」として、それに労働という面から光をあてることで、心の負担を少なくできることもあります。そうすることで、感情的な関係にのめり込まないで、相手との距離をもう一度意識し直すことができるようになるからです。

<看護という関係において、患者とナースの出会いというのはいうまでもなく偶然である。なにも縁でむすばれていたわけではない。だから、そのあいだにものの考え方や感じ方のずれがあって当然なのだ。だから、患者の気持ちをよく理解しなければならないと、あまりにおおきな要求をじぶんに向けなくてもよい。ずれがあっても、じゅうぶんに「理解」できないところがあってもいいのだ。「理解」できないままにそれでも相手に持続的に接する、そのことでできることがあるはずだからだ。>

現代のようにサービス業務が多角化してくると、感情労働に無縁でいられるのが難しいくらいです。ですから、自分の実力を省みないで、相手との距離の取り方を間違えると大変なことになる可能性があります。たとえ、仕事と割り切って振舞っていても、お互いの持続的な信頼関係のようなものが必要になる仕事ですと、だんだんに労働を自分の感情と切り離して「商品」のように扱うことができなくなるからです。加減とか塩梅、潮時とか融通、ほどほどとか適当というような「良い加減」が大事なのです。

”<弱さのちから>から引用しました”

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2009年2月 7日 (土)

人間世界に同じことはない

一人ひとりの意味

「おまえも中学3年生のときにカンニングをしたのか、同じだな」と言ったとしても、絶対に同じではありません。カンニングは、しました。しかし、する前の考え方やした後の考え方などは、すべて違います。似たようなことは、もちろん、たくさんありますが、同じ事柄はありません。だから、「同じだ」という思いには、どこかに無理があるのです。そんなときは、「とても似ている。ほとんど同じだ。けれども、どこが違うのか」、あるいは「違うはずなのに、なぜ、わたしのこころは、ここまで揺さぶられるのか」と問いかけてみます。

「同じ人間はひとりもいない、かけがえのないひと」という認識がなくては、ひとの話は、聴けません。しかし、「2人は同じだ。同情します」となってしまっては、いけないのです。悩んでいるひとは、自分の気持ちを受け容れてくれたからと安心してどんどん近づいて来るので、よりよい判断や方法が選べなくなることがあるからです。

”体験的バージョン”は、一人ひとりが違います。たとえば、蚊を見て平気で殺すひともいれば、蚊を見て逃げるひともいます。体験的バージョンとは、太陽が東から昇るということで、こころは、太陽が西に沈み、次の日にまた東から昇るからこそ、安定するのです。それに対して、地球は太陽の周りを廻っているというのは、“科学的バージョン”です。科学的バージョンで考えたら、ものすごいスピードで地球は廻っているのですから、こころは、まったく落ち着きません。

運命は前から来ます。絶対に後ろからは来ません。後ろから来るのは、宿命です。宿命にはたくさんのものがあります。太陽が爆発したという57億年前まで遡らなければいけません。・・・原因(宿命)的な理解をするのではなく、それをどう意味づけるのか。意味(運命)の追求が大事です。

悩めるひとを「お客さん」と思ってはいけません。そうなると客観的な関わりになってしまいます。「ひとつの客体」として人間を見てはいけません。「生身の人間」として接しなければいけません。

かけがえのない人間関係を嫌うと、かけがえのある関係ばかり結びますから、相手にとっても、自分も、かけがえのある存在でしかありません。そうなると、自分自身のかけがいのなさを感じられなくなってしまいます。自分のかけがえのなさは、他人によって、「このひとはかけがえのない人間」として扱われてはじめて身につくものだからです。かけがえのなさとは、「わたしは、わたしでなければ実現できない、ユニークな意味を背負って生きている」という実感なのです。

”<心理臨床の奥行き>から引用しました”

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2009年2月 1日 (日)

ADR基礎編+中級編/効果測定

2時間40問

行政書士ADRセンター東京の効果測定を受けました。第3期生として、12月に中級編研修を受講したので、効果測定を受けられる資格ができたのです。事前に、8割以上の正解が合格、名簿登載前に面接をして会長推薦をするなどの説明がありました。名簿登載人数は、最初だからできるだけ多くと考えているようですが、今までの研修受講記録などを参考にしての面接結果によるので、まだまったく決まっていないとのことでした。

指定文献「河合隼雄のカウンセリング入門」「新版ハーバード流交渉術」「聴くことの力」と調停人養成教材の基礎編・中級編テキストからの出題とされていました。ざっと目を通したのですが、範囲が広くはっきりしていないために、無理して覚える必要がないと決めつけていました。久しぶりに、基礎編テキストを開きましたし、ロールプレイ中心の中級編では、テキストの内容にはあまりふれなかったので、はじめて読んだようなところもありました。

2時間集中するのは、結構大変です。横の女性が何か食べ始めたり、トイレに行く人が横を通ったりするのが、ちょっと気になります。問題に集中していれば、まったく気にならないのでしょうが、このところ試験慣れしていないので、気にかかってしまいました。しかし、一応回答をして、再度の見直しをしても、さらに時間が余りましたから、適当な集中だったのかもしれません。

解答集が配られたので、答え合わせをしたら、なんと12問も間違っていました。8問の間違いまでしか合格になりませんから、間違いなく確実に不合格です。そして、その後、解説されたのですが、なるほどと納得することばかりでした。できなかった問題には、自信があったものもいくつかありましたから、単に実力のなかっただけだと、その場ですんなりと諦めがつきました。しかし、「これまでに、テキストからの出題をなめるように細かくしたので、もう効果測定にテキストは使えない」といわれたのには困りました。次の効果測定で合格すれば、まだまだ、名簿登載には、充分に間に合うだろうと安易に考えていたからです。

レポートを提出すれば、点数を加点してもらえるそうです。しかし、4枚もレポートを提出して合格しても、自分で納得できないし、”本当は合格していないのだ”という変な後遺症が残ってしまいます。なぜか、面接は全員にするようですから、その前に再度の効果測定の場を設けて欲しいと思います。しかし、効果測定の当日に、不合格者から直接に要望するのもあまりに厚かましいので、黙っていました。それはそれとして、考えれば考えるほど、たぶん、同じ問題では、同じ間違った回答をしたに違いないという確信めいたものがあります。結果的には、不合格でしたが、今の本当の自分の力をはっきりとわからせてくれて、再挑戦する気にさせてくれた効果測定でした。

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