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2009年3月

2009年3月31日 (火)

ADR調停人候補者名簿登載のための面接

第1回補充面接

3月17日(火)に敷金・原状回復の専門分野で面接を受けたあとに連絡をいただいて、外国人分野での補充面接を受けることになりました。そして、3月31日(火)10:00~10:30に面接を受けました。なんとなく、2回目ということもあって、少し余裕もありましたが、口頭試問もあるので、再度、入管法を読み直すことにしました。しかし、始めてみると、忘れている個所も多くあったので、難しいことを聞かれたら、もう諦めるしかないと、いくらかあったはずの余裕もどこかに消えてしまいました。

待合室で待っていたら、面接が終わった仲間が、「はじめての挨拶」はなくて、いきなりロールプレイだったと教えてくれました。せめて、「はじめての挨拶」だけは、前回よりも完成度を高くしようと時間をかけて準備していたので、残念な気がしました。しかし、ロールプレイは、ぶっつけ本番という面もあるので、あとはもう何も考えないで面接に臨むことができました。

面接会場の雰囲気は、センター長なども同席していて、1回目よりも緊張感がありました。ロールプレイは、2人の若い女性相手だったので、最初から「謙虚に聴く姿勢」を貫こうと決めました。自分の意見はあまり出さないで、ただただ聴くことに徹しようと考えたのです。そうはいっても、面接ですし、審査員も4名いますから、どこかではスキルと使わなければなりません。本番では、聴いたことを的確に要約したりすることで、課題がだんだんに明らかになるはずですが、ロールプレイの短い時間では、それがなかなか難しいというのが、前回同様に終わったあとの率直な印象です。

イスラム女性に対してベールなしに営業活動をしろという会社社長とできないという従業員との調停でしたが、前回のように調停人を困らせるために挑発してくるようなことはありませんでした。しかし、対話が平行線になるような場面もあったので、実際の調停だったら、お互いが納得できるような解決になるかどうかわかりませんでしたが、幸いに、ロールプレイなので、時間に救われました。

口頭試問は、イスラム女性が在留資格「技術」でエンジニアとして入社しているのに、営業活動をするのはどう思うかという質問だったので、資格の変更をしなければならないと答えました。最後に、センター長から、途中で話の転換をさせるという高度なスキルを使ったとほめられたのですが、自分では、特に意識して使ったスキルではなかったので、逆に、スキルを磨く必要を強く感じました。とりあえず、2つの専門分野の面接が終わったので、あとは結果を楽しみにして待つということになりました。

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2009年3月28日 (土)

ストレス解消できる?

ストレスは、なくすしかない

ストレス解消という名目で、派手に買物したり、お酒を飲んで酔っぱらったり、大食いをしたり、愚痴を言ったりしていますが、本当に、それで解消されているのでしょうか? それも新たな煩悩ですから、表面上はストレスが消えたように見えても、実は、見えないところ(潜在意識)で、次のストレスの準備をしているのです。つまり、ストレス解消とは、ストレスの上に新しい刺激を強引にかぶせることによって、ストレスを抑圧しているだけのことなのです。抑圧というのは、ストレスを見えない闇の中へと沈めこんで表面から見えなくなるようにしているだけで、解消にはならないのです。そして、その沈められた不快なエネルギーは、必ずあとで浮かび上がり、さらに強烈な「苦」ストレスを引き起こすことになるのです。

欲望とやる気は、まったく別物です。浮わついた欲望を実現するために、やる気を起こせて、がむしゃらに働けるのならば、それもいいのでしょうが、逆に、欲望を強く持てば持つほど、やる気は損なわれてしまいます。というのも、やる気というのは、欲望というストレスによって、消耗されてしまうものだからです。

どんなことであれ、物事を楽しむための必須条件は、余計なことを考えずに、没頭することです。没頭していない、つまり、集中していないと、つまらない考え事があれこれ浮かんできてしまいます。その考え事は、現実ではなくて、脳内の情報にすぎません。ですから、考え事へと心が逃げる瞬間、目の前の現実に向けられるエネルギーは、確実に減少してしまいます。すると、目の前のなすべきことが、おろそかになり、つまらないものに感じられるようになるので、だんだんに、やる気までが衰えてしまうのです。

<作業をするにせよ、考えるにせよ、何かするときは、その作業内容と必要な情報のみに意識のターゲットをしぼり、他の雑念に心がさ迷わないようにすることが必要です。意識というのは、毎瞬、大量の情報処理をしているのですから、本来、ものすごいエネルギーをはらんでいるのです。余計なことに浪費されているエネルギーをカットして、一点のみに集約いたしましたなら、強力な力が引き出せる道理です。そして、考え事という脳内自慰に逃げ込まずに、「今やっていること」に集中してしまいましたら、たとえ、どんなにつまらなく見えることをやっていたとしても、時間を忘れるくらいの充実感を得られるようになります。>

”<煩悩リセット稽古帖>から引用しました”

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2009年3月24日 (火)

東京マラソンで娘の応援

ゴールまで追っかけ

東京マラソンに抽選で当たって、娘が出場することを知ったのは、昨年のことでした。42.195Kmを歩くのだって難しいのに、まして、完走が本当にできるものだろうかと半信半疑でした。その後、練習はそれなりにしていたようですが、それでも、無理して足を痛めなければいいくらいに思っていました。そして、いよいよのその当日は、とりあえず品川の折り返し地点で応援をすることにしました。それでも、まだ、新宿のスタート地点からそこまでの約15Kmを走ってこられるかどうかもわからないけれど、というくらいの気持ちでした。

品川の折り返し地点は、応援する人たちで混雑していましたが、それ以上に多くのランナーたち?が次から次へとやってきます。担架で運ばれた芸能人や早々に足を骨折している車椅子の人なども見ました。あまりに団子状態だったで、娘の姿は捉えられませんでしたが、少し離れて応援していたいた妻は、元気で走っていた娘に出会えたそうです。そこから、銀座、浅草へというコースだし、どうやら雨も降りそうだしということで、浅草でゆっくりと食事をしながら待つことにしました。

雷門の脇の天婦羅屋{三定」でのんびりと食事をしていたら、その間に通過してしまったとわかりました。本人から携帯で連絡があったのです。サラリーマンのときに、その店の社長夫婦には面識があったので、会計のときに何気なく尋ねたら、もうお二人ともお亡くなりになっていると聞いて驚きました。それほどのお年ではなかったはずだからです。マラソンでもなければ、昼間から浅草で食事するような機会もなかったはずなので、謹んでご冥福をお祈りしました。

5Kmごとに通過ラップが出るので、だいたいどのあたりを走っているのかが携帯で掴めます。雨が降り始めた浅草で会えなかったので、次に新冨町に移動しました。最後の難所の坂があり、風も強くなってきたので、そこで応援して励まそうということになったのです。さすがに、折り返し地点とは違って、一人ひとりが近くで確認できます。娘も真剣な顔をして走っていましたが、それほど疲れている様子にも見えなかったので、そこでもう完走を確信しました。

ゴールのビックサイトは、強い風と雨、そして、人また人でした。完走者には、メダルが渡されるようで、首から下げて、皆、誇らしそうに歩いていました。娘の完走は、携帯で知らせがあったので、すでにわかっていました。待ちながら、こんなにも大勢の人が完走するということにも感激をしたのですが、それにも増してビックリしたのは、なんともその完走者たちの元気なことでした。まるで、充実感で、疲れを忘れているかのようでした。そして、ようやく、娘に会えたのですが、やはり足を引きずっているわけでもなく、とても元気だったので安心しました。

制限時間を過ぎると、走るのを無理やりやめさせられて、バスに乗せられてしまうそうです。公共の道路を使うのですから、それもやむを得ないことです。さらに、制限時間内にゴールするという目標を達成するからこそ、完走に価値もあるのでしょう。だから、スポーツクラブで、たかが5Kmくらい歩いているだけで満足していてはいけないのだという反省をした一日でした。

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2009年3月18日 (水)

ADR調停人候補者名簿登載のための面接

第1回面接

渋谷南平台のADRセンターで、分野「敷金」の面接を受けました。控室には、専門分野(敷金・原状回復トラブル)<共通事実>というA4の用紙が置いてあり、面接の中でロールプレイをするので、事前に読んでおくようにと書いてありました。前日の東京都行政書士会のデスクネッツ(会員用のネット掲示板)に、5分間「はじめての挨拶」、15分間「ロールプレイ」、10分間「口頭試問」をすると載っていましたので、当然のこととしてそれを読んでいました。

すると、次の面接を受ける人が入ってきて、「ロールプレイがあるんだ!」と驚いていました。どうも、前日の連絡を見ていないらしいのです。すると、はじめての挨拶もぶっつけ本番でしょうから、結構大変だなと思っているところに呼び出しがありました。

当然のように、前にずらっと年より?たちが並んでいるのを想像していたのですが、実際には、大きな楕円形のテーブルに4名の審査員がいるだけでした。そして、生年月日や資格などを尋ねられた後、「すでに椅子に座ったという状況から、はじめての挨拶をして、そのままロールプレイを開始する」ように指示がありました。審査員の2人が、テーブルを隔てて、申立人と相手方の役割を演じるのです。

はじめての挨拶をしている間、審査員がチェック項目を埋めていましたから、突然に指示されたとしたら、とても難しかったかもしれません。それから、ロールプレイに移ったのですが、面接ですから仕方がないかもしれませんが、調停人を困らせるようなことをどんどん言います。たとえば、「調停人はどう考えるかとか」「なにか法的に決まりのようなものはないのか」とかと誘ってくるのです。調停人は、中立の立場で、法的なアドバイスなどはしないことになっていますので、その攻撃をどう防ぐかを試しているのでしょう。

調停人にとって、まず「聴く」ことが大事です。ロールプレイでも、自分の意見を言わないで、聴くことに徹しようとしました。しかし、言い換えや要約などの基本的なスキルは、面接ですから、あえて頻繁に使いました。ロールプレイの目的は、誘導をどう切り返すか、適当にスキルを使うかどうかなどを採点しているに違いないからです。

最後に、ロールプレイの内容のイシュー(課題)は何かと質問されて困りました。課題などは、もっと双方の当事者の話を聴いてから考えるものと思っていて、何も考えていなかったからです。なんとなくグズグズと言っていたら、質問者が「それは…ということですか?」と助け船を出してくれました。それ以外の質問は、なんとなく答えらてました。

第1回面接というからには、少なくとも第2回があるのでしょう。4月ごろに東京都行政書士会のADRが認証されると聞いていますから、ほとんど時間がないはずです。きっと、落ちていなければ、次の面接がすぐにもあるでしょう。楽しみにして、結果を待っています。たとえ、もし、今回落ちても、何度でも挑戦する時間と機会はあるので、いつかは、調停人になれるのですから。

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2009年3月14日 (土)

何も考えないための奥の手

意識と目を使う2つの方法

「ヘタの考え休むに似たり」というように、考えてもどうにもならないことを、どうしても、くよくよと考えてしまうものです。起こってしまったことや、もしかしたら起きるかもしれないようなことを、考え始めてしまったら、後悔とか不安とかで、頭の中がいっぱいになってしまいます。そんなときは、努めて、身体を動かしたり、他のことを無理にでも考えるようにしてきました。しかし、たまたま、何も考えないための奥の手を知りましたので、ご紹介します。

考えていない状態は、一般的には瞑想と呼ばれています。瞑想には、何も考えない瞑想とイメージングする瞑想とがあります。本来は、瞑想するためには、呼吸法なども大切なようです。しかし、ここで紹介するのは、誰にでもすぐにできるような簡単で手軽な方法です。

意識そのものを使う方法は、両手に均等に意識を分散し、そのまま集中するのです。もっと高度な瞑想を望むなら、両手両足の4点に分散して、そのまま集中します。意識というのは、通常1点にいっているのですが、それを分散してしまうのです。実際に、やってみると、確かに、合理的な思考はできません

次に、目を使う方法は、目線の先の一点と、視線の端の輪郭を同時に見るのです。意識がそちらに行って、とても何かを集中して考えることなどできないはずです。やってみて、眼球の運動にもなりそうなことがわかりました。ただし、いつもやっていたら、目つきが少し悪くなるかもしれません。

坐禅では、ただ「何も考えない」と思うのではなくて、一つの事柄に意識のすべてを集中させ、そのうちにその一つの事柄をも忘れた時間が訪れるのだそうです。そこでは、何の価値判断もなされないし、時間という概念もなくなるのでしょう。お手軽な2つの方法では、そこまではとても無理としても、「考えなくてもよいことを考えない」ということだけはできそうです。

何も考えない状態は、そのままでは何の役にも立ちません。しかし、たまには、そんな「うすらぼんやり」した瞑想が、今の我々には必要なのではないでしょうか?

”<明るい禅 玄侑宗久著>から引用しました”

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2009年3月12日 (木)

不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)

七福神はなぜ目出度い?

不自讃毀他戒というのは、大乗仏教との「十重禁戒」の一つです。「己の所業を誇り、他を悪しざまに言うことなかれ」という意味です。相手を評価するのは、あくまでも自分のベクトル上ですから、凡人には、なかなか守ることのできない戒めなのです。では、そこで、なぜ七福神が目出度いのかというと、評価ができない7つの価値観が同じ船に相乗りしているからなのです。

インドの毘沙門、大黒、弁天、中国の福禄寿、寿老人、布袋、そして日本の恵比寿で7福神です。それぞれが、大変な癖?を持った神様です。たとえば、恵比寿は、蛭子とか戎とも書きますから、生まれ損ないとか漂泊者にもつながります。とても協調性のある神様とは考えられません。ですから、この船の神様たちは、全員が味方になることもありませんが、全員が敵になることもないのです。ということは、不自讃毀他戒が7福神を保たせていて、それが目出度いと、7福神全員が主張しているのです。

いろいろな個性や癖をもった人間が集まっている社会だからこそ、刺激や変化があり楽しいのです。みんなが同じような人間だとしたら、すぐに正義とかをふりかざして喧嘩になってしまうでしょう。自分にないものを持っている人、自分ではどうしてもできないようなことを平然としてしまうような人が周囲に沢山いればいるほど、人生は深く充実するのです。

評価の基準自体もどんどん変わります。たとえば、職業でも、決まり切った固定的なイメージはなくなって、その個人の信用や実績で判断されるようになりました。たとえば、国家免許を持った医者ならば、すべての医者が尊敬され信頼に値するとは、もう誰も考えていないはずです。ですから、セカンド・オピニオンなどが当たり前になったのです。しかし、医療過誤のような問題ばかりに神経質になるのも、逆に困った現象です。目の前の医者が信用できなければ、安心して治療にも専念できないということだからです。インフォームド・コンセントとして、どんなに詳しく症状を説明されても、だからどうするという判断は、素人である患者には難しいはずです。

日本では、確立された「個」としての「我」という感覚は薄くて、まず「場」があり、そのうえでその中にいる漠然とした「私」というものがあるようです。それが、主体的に「私」が何とかする、「私」が責任をとるという感覚があまりないので、何とかなるだろう、責任はその「場」にいる誰かがとるだろうという感覚以前の雰囲気になってしまいがちなのです。場の雰囲気、場を保つことが最優先されて、そこで語られた言葉については、その場全体の責任になったりすることさえもあります。だからこそ、逆に、それぞれが強烈に自己主張しているけれど、いつも笑っている円満な7福神が目出度いのです。

”<玄侑和尚と禅を暮らす>から引用しました”

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