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2009年6月

2009年6月29日 (月)

太刀は兵法の起る所也

離れられない剣と禅

「現在行なわれている剣道は、明和、安永頃からはじめられた一種の末技的な促成法であって、日本固有の剣法の真姿は全く失われてしまっている。・・・榊原鍵吉、山岡鉄舟を殿後の2名人として、日本固有の剣法は幕を閉じたとみるべきであろう」

剣道は、刀剣を離れては考えられません。剣の道は、日本刀とともに起こり、日本刀を中心として発達したものなのです。古代の日本人は、刀剣を神から発したものと考えていましたから、刀剣に対して深い尊敬をもち、神器として尊び、武士の魂として重んじたのです。ですから、自らの魂と畏敬する「刀の手前」に対しては、あくまでも恥なきを期し、身命をかけることも辞さなかったのです。「刀の手前」は、剣の道を規制し、剣者の生涯をも律していました。その意味からは、一如した心・息・身が、渾然として剣そのものの中に姿を没し去ることが剣の道なのです。

戦国の末期までは、剣法の要は、撃刺の技よりも、精神の安定不動が狙いだったそうです。剣の技術など無視して、武運まかせ腕力まかせだったのですが、ひそかに剣法を修業していると、息切れしないという利点だけは知っていたようです。だんだんに世の中が平穏になるにつれて、その効果ある実地鍛錬の機会がなくなってきました。そこで、剣法の師範家や流派が勃興したのです。さらに、鉄砲の出現によって、甲冑着用の介者剣法から、素肌剣法に変わりました。消極的な防御本位の「構え」に依存する「後の太刀」から、積極的な攻勢を主体とする、構えはあっても無しとする「先の太刀」への転換です。

針谷夕雲は、「己れに劣るものに勝ち、まされるに負けて、同じようなるには相打より外はなくて、一切埒のあかぬ」ものとして、それを畜生剣法として罵倒しています。人間の剣の道ではないというのです。勝負の道である以上、敵と我、勝と敗、生と死というような2つの相矛盾するものが、常に対立しています。しかし、夕雲は、千錬万鍛の結果、その相対的な分別界を越えたのです。「凡そ太刀を取て敵に向はゞ、別の事は更になく、其間遠くば太刀の中る所迄行くべし。行付きたらば打つべし。其間近くば其儘打つべし。何の思惟も入るべからず」と畜生心の妄想を否定し、住するところのない境涯に達したのです。

鉄舟からではないかと筆者がいう独妙剣という無刀流の組太刀の極意があります。「太刀を青眼に構えて、ジッと立っているところへ、敵がスッと出てきて面上を一撃するが、心も身も微動もしない。敵刀は当たらずそのままわが前に落ち、敵は尾を巻いて去る。その退いてゆく敵に追い討ちをかけるでもなく、追ってゆくでもない。依然として青眼のままジッと立っていいるだけである。この独妙剣に至っては、剣禅一如というも当たらない。それは既に剣にして剣にあらず、禅であって禅ではない。剣禅を絶した至境というのほかはない」

”<剣と禅>大森曹玄から引用しました”

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2009年6月27日 (土)

民法の抜本改正

民法改正委員会

現時点において、法務大臣による債権法改正の諮問がなされているわけではありませんが、民法学者が中心となって構成されている民法(債権法)改正検討委員会という私的団体が叩き台となりえるような民法改正試案を作成しています。そして、委員会で議論をまとめた後、法制審議会に上程することになっています。改正の方針は、部分修正にとどまらず、抜本的改正とされています。つまり、確定判決を盛り込むこと、安定した法解釈を条文化する、というだけではなくて、国連条約などに見られる国際化統一化傾向と調和する内容に改め、条文数も大幅に増やして民法典を再構成しようとしているのです。

民法が施行されたのは、1898年(明治31年)7月16日、今から111年前です。親族編・相続編を除く総則編・物権編・債権編については、部分改正はされましたが、実質的な全面改正まではなされませんでした。そこで、ついに昭和27年に法務省が組織されて以来の最大級の改正がされようとしているのです。

改正委員会では、債権法改正ということで民法の債権編を中心に改正することになっています。また、必要に応じて総則編も改正の対象になるようです。たとえば、消滅時効の期間短縮などが検討されています。しかし、判例や学説による解釈が極めて多い不法行為や不当利得については、改正の対象にしないとされているようです。

特別法を民法に取り込むことも考えられています。商法の商行為の規定や消費者契約法などです。もっとも、借地借家法や労働契約法は取り込みをしないそうです。その理由は、政策的な問題が大きく影響するからとされています。

明文によって、契約自由の原則と契約交渉段階における契約交渉破棄に対する無問責の原則を規定することが検討されています。これらの原則を明文で確認しておく意義は大きいのですが、そうすると、例外的に信義則違反の態様で契約交渉を破棄したような交渉当事者に対しての損害賠償責任を負わせる規定も検討しなければならなくなります。また、それをわかりやすい表現にもしなければなりません。規定案では、「契約の成立を期待して行動したことにより被った損害」というような表現が用いられています。そして、責任の性質については、やはり契約成立前の責任ということから、契約責任を構成しないとして、不法行為責任として構成することも検討されているようです。

民法は、私法の基本法ですから、民法を利用する国民生活に大きな影響を与えます。ですから、民法改正には、多くの国民の意思が反映されなければなりませんし、実務慣行に対しても充分に配慮しないといたずらに混乱を招くことにもなりかねません。迅速な審議で「そう遠くない時期に法案が作成される」と聞いていますが、もっと慎重で、より幅広い議論が必要という声も無視してはなりません。

"<民法改正を知ってますか?>から引用しました”

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2009年6月17日 (水)

成年後見基礎研修(5)

任意後見の契約手続

成年後見センターを運営している司法書士が講師です。何度も、実務を経験しなくては成年後見の仕事を覚えられないし、相談も受けられないと強調していました。現在、東京の司法書士3,000人のうち500人が実際に後見業務に携わっているそうです。若手の参加も徐々に増えているのですが、今後予想される後見業務の増大にはとても対応できないそうです。また、弁護士、司法書士は、東京に集中しているので、埼玉などでは、すでに行政書士の後見業務がスタートしているとも教えてくれました。

保険金の還付手続をするためだけに、やむを得ず成年後見の申立をしても、東京家裁では、身内である70歳以上の高齢者は、ほとんど選ばないそうです。ですから、その手段としてだけに後見人の依頼があっても、被後見人のためにはなりません。親族間の関係と何のために申立をするのかを事前によく確かめる必要があります。

任意後見制度では、代理権はありますが、取消権はありません。任意代理人に取消権を与えることは、意思表示によって自己の将来の行為を否定することであり、私的自治の限界を超えているという理由で与えられなかったのです。一方、居住用財産の処分については、法定後見における家庭裁判所の許可に該当する規定はありませんから、任意後見人の判断で処分可能です。本人が自らの意思で成年後見人に代理権を付したのですから、自己決定を尊重し、家庭裁判所の介入は必要ないのです。

任意代理契約(財産管理等委任契約)を締結する場合は、3面契約として、リーガルサポートが監督人として加わることになっているそうです。通常は、任意代理は、本人が代理人を監督することが原則ですから、監督人をつけません。そのために、チェック機能が働かないので、しばしば不祥事が起きてしまったのです。さらに進んで、代理権の範囲も日常業務に限定して、報酬も定額制にしようとしています。代理権目録に制限を加えれば、日常業務に限定することができます。そして、それ以外の業務を受けるときは、本人の意向を重視してそのつど別契約するのです。信頼されなければ後見業務はできませんから、司法書士として姿勢を正しているのです。

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2009年6月14日 (日)

蚊弟子

長く続けること

剣道や柔道には、蚊弟子という言葉があるそうです。「たいした願心もなくフラフラッと入門したのだから、やがて秋風の身にしみる季節、つまり蚊もいなくなるころになると、いつしか足も遠のいて蚊とともに道場を去る。翌年の気候のいいころになって、開け放たれた武者窓から元気のいいかけ声が流れてくると、病気だったもので・・・とか何とかいって再び稽古に通いはじめる。要するに、蚊とともに出席したり欠席したりする意志弱行の徒が蚊弟子というものであろう」

スポーツクラブでも、春から夏にかけて徐々に薄着になるので、体形が気になるせいか、新規会員が増えたり、既存会員の通ってくる回数が増えたりする現象が見られます。ちょうど蚊弟子のようなもので、それも秋とともに消えてしまいます。毎日通っている常連会員同士の会話を聞いていると、たまに1週間くらい休んだりすると、元の体形に戻すのには、相当な日数がかかるそうです。ですから、急に運動をはじめたとしても、体形が変わったとは、ほとんどわからないのではないでしょうか。

風呂会員といって、運動はあまりしないで、毎日お風呂を楽しみに通ってくる常連がいます。会費を日数で割れば、近所の銭湯よりも安いし、サウナもあるし、シャワーの水も気にしないで使えるからなどと、それなりの理屈づけをしています。そして、時間帯は、毎日決まっていますから、誰がどの位置で座って洗うかもだいたい決まっているようです。風呂だけでも毎日通っていれば、一応体形もお互いにチェックできますし、仲間としての会話も弾みます。なにしろ、何も身に着けていなのですから、本当の裸のつきあいなのです。

「坐禅を継続実行するにはこの道に対する愛好心をもつこと。そしてさらにその愛好心をつねにより助長するように心がけることが必要である。けれども、いくら愛好心をもっていても、長期実行には当然ある程度の苦しみも伴うことを忘れてはなるまい」

せぬときの坐禅として、「何事かをしようとするには、思い立ったらそのまま分別なしにするのがいい。あとで・・・などと思うのはよくない。外出しようという機(気)が動いたらそのままふと出ていくことだ。あとにしようなどと思い直してはいけない。・・・万事このように無分別でやる習慣をつけると、存外心のかるくなるものだ」(正三老人) ここでの無分別とは、分別しないことでもなければ、分別する能力を無視することでもありません。それどころか、かえって、分別に徹底して、分別に成りきることです。仁王の機の張りつめた位、充実しきった心境で、そのもの、そのことに体当たりしていくことです。

”<参禅入門>大森曹玄著から引用しました”

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2009年6月 7日 (日)

死のリアリティ

生きていることを引き受ける

「人は、死ぬから生きられる。死のリアリティが浸透してくると、生の強度そのものが下がっていく。リアルなものというのは、普通は生きているうちにあるものだと思っているけど、私には死のリアリティの方が圧倒的に強い。むしろ、生きていることの方が幻想的だと思えるほどなんです。・・・生きることのリアリティが低いから、漠然と生きるということが私にはどうしてもできないんです。」(南直哉)

「苦」とは、「苦しい」ということではありません。人生の「苦」というのは、探したいことあるいは知りたいことがあるけれども、それは最初からわからないと決まっていることをいうのです。でも、知りたいし、それがそこにあるはずだと錯覚しながら、もともとないものに向かって突っ込んでいくので、さらに苦しくなるのです。ですから、「苦」というものを、ただ嫌なこととして受け取ってはいけないのです。「苦」とは、逃れられない実存のことなのですから。

人間は、自ら望んで生命を与えられたものではありませんから、生の最初から思い通りとはなっていません。思い通りにならないから、辛いのです。そして、苦は生きることの本質と結びついていますから、それを取り除いたら、結局、生きていないということになってしまいます。ですから、苦しいことにどれだけ耐えられるか、楽しいこと自体も苦しいことのうちと見切るのかが大事です。楽しいことは苦しいこと、苦しいことは楽しいことなのです。

ブッダが因果を説くのは、「あらかじめ因果によってものごとは決まっている」ということではなくて、人が努力し未来に希望を持ち、自分が自分として立っていくためにどうしても必要な考え方だからだそうです。つまり、未来に向かって自分を投げ出すための根拠として絶対に必要だからなのです。

「根拠のなさこそ、生の正体だと思います。決定的にわからないものは、一種の災難で、そこからみんな逃れたいから、はやく答えを教えてほしいというわけですよ。でも、安直な問題を構成して、こうすればこうなるとやってしまうと、その瞬間からリアルなものが失われていく。それに比べて死の方がずっとリアル。死のリアリティと直面することで生を賦活していくとしか私には思えないんですよ。それをごまかして、生自体に何かあると思うから、いろいろ迷いや執着が生じるんだと思う」(南直哉)

「霊魂や死後の世界があるかどうかということは、日々一瞬一瞬の喜怒哀楽の間尺と全然違っていて、それがどっちに転んだとしても、日々の苦しみとか切なさとかは救われないというか、それで救われると思っちゃうことによって、逆に生きることの充実感から外れていっちゃうのかもしれない」(茂木健一郎)

”<人は死ぬから生きられる>から引用しました”

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2009年6月 5日 (金)

ADRセンター東京の認証祝賀会

難産だった

6月4日(木)認証祝賀会に調停人候補者として出席しました。主催は、日本行政書士会連合会と東京都行政書士会です。東京都の会長選挙によって会長が替ったために、新会長が挨拶しました。弁護士会代表の祝辞でも、苦労話がほとんどでしたから、いかに内部調整が大変だったかがわかります。また、来賓の祝辞で、6年以上前からADRに対する行政書士会の取組が始まっていたことを知りました。そのときから認証取得に努力してきた行政書士が、「時期がよかったからこそ認証された」と語っていました。それほどの難産だったようです。

祝賀会の前に、プレス発表をしました。反響があったのは、リーズナブルなプライスです。申込手数料3,600円で、期日手数料が3,600円です。その金額で、センターの経営ができるのかという声もあるようですが、社会貢献という行政書士の役割を考えて決めたということです。調停手続を利用するには、無料で事前に相談と説明を行います。また、事案によっては、弁護士の助言も確保されています。

4つの専門分野(外国人の職場環境・教育環境に関する紛争、自転車事故に関する紛争、愛護動物に関する紛争、居住用賃貸借物件に関する敷金返還または原状回復に関する紛争)について、「よくぞ、最初から4つも取れた」といっていました。一方、行政書士の守備範囲にしては少ない、という声も聞いたことがあります。祝賀会やそのあとの懇親会で、難産だったことを知れば知るほど、先ずは、その4つの分野で着実に実績を積んでいくしかなさそうです。

新会長になったので、センター長が替わるのだそうです。3年間の、それも研修時だけのお付き合いですが、認証へのひたむきな姿勢と温かい人柄を知っていましたので、心中も察せられ、残念な気がしました。ですから、祝賀会がセンター長としての最後の仕事でした。また、事務局のメンバーもどうなるかわからないらしいので、はっきり決まるまでは、具体的なことは進みそうにありません。しかし、外部に発表しているのですから、申込みがあれば受けなくてはならないでしょう。とりあえず、今のメンバーで対応するしかありませんが、これからがまさに本番なのですから、ちょっと変な気がします。

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2009年6月 3日 (水)

成年後見基礎研修(4)

社会貢献として

現在、11人の法定後見人および任意後見人をしているという行政書士の講義を受けました。実務に即しての講義だったので、面白くて、いつもの居眠りもしませんでした。行政書士としてできるのは、任意後見契約書の起案だけであって、作成は公証人であることをわかり易く解説してくれました。おかげで、なんとなくもやもやしていたものが、すっきりとしました。家庭裁判所は、申立人の書類作成のお手伝いをすることは仕方ないと認めているのですが、行政書士として公に行動することは認めていないのです。社会貢献?のために、一市民として誰でもがなれる法定後見人には、一市民である行政書士でもなれますが、行政書士だからできるというわけではないということです。

任意後見人数は、本人の被後見人が死亡した後で、子どもや親族から責められることがあったりするので、あまり増えていないそうです。後見人は、あくまでも本人のために行動しなくてはならないので、親族や施設に対しても、ときには憎まれるようなことも言わなくてはなりません。憎まれなければ、本人を守れないような場面が多いのです。ですから、任意後見人自身のガードが甘かったりすると、背任横領などと責められたりしまいます。本人がいないのですから、後見人の権限は、もう何もないからです。一方、法定後見人の場合は、家庭裁判所に報告をして定期的にチェックしてもらっていますから、疑いをかけられることが少ないのです。

福祉施設等への定期的訪問による処遇に対する監視・監督行為が大切です。驚いたことには、その施設にもよるのでしょうが、入所させた後で訪問する親族がほとんどいないそうです。後見人が定期的に本人と会っていないと、施設側も、人間ですから、気を抜いたりすることがしばしばあるそうです。実情は、人手が足りない施設が多くて、サービスの質にもずいぶんと差があるのです。

アルツハイマー型認知症は、作話や偽会話があるので、表面的に会話が成立しますから、家族がなかなか見つけられません。また、脳血管性認知症は、失語症になりやすく、暴言や暴力という特徴があるそうです。また、難病に指定されていれば、申請によって補助が受けられますから、病名を知らなくてはなりません。さらに、病院では、入院保証人、施設では、代理人とか身元引受人というような条項の契約書があります。すなわち、連帯保証人ということですから、よく確かめないと、一生面倒を見ることになってしまいます。病気などへのアンテナも幅広く張っていないと後見人業務は務まらないということです。

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