ことばのちから

2009年8月29日 (土)

挨拶に題名をつけてみる

前置きをとにかくやめる

挨拶のポイントは、一般論、抽象論を言わないことです。たとえば、エピソードやゴシップも具体的なものを使います。そして、原稿ができあがったら、題名をつけてみます。題名がつけられないようだと、散漫になっているからです。注意をするのは、とかく日本人の挨拶は前置きが長いので、それをやめるようにしなければなりません。

司会者がスピーチをしてはいけません。司会者があまり詳しく説明しすぎると、「私の言いたいことは、ただいま司会者が全部おっしゃってくださいました。おめでとうございます。終わり」とお辞儀をすることになってしまいます。司会者が主役になってはならないのです。

失言をしないためには、原稿を書くことです。そして、それを聞いてもらって、問題がないかどうかチェックしてもらいます。そのときに、時間を計り、だいたい5分以内に収めるようにします。逆に、会場の人々がおもしろがっていないし、反応がないからといって、即興で、みんなにうけるように喜ばせようと頑張ると、どうしても失言が多くなってしまいます。会場は、目の前で楽しんでいる人ともっと広い視点でものを見ている人との二重構造になっているということを考えたうえで、気をつけてジョークやゴシップを言わなければならないのです。

弔辞は、その人の一生を、スピーチする人の立場から、ひとつの伝記として総括するものです。弔辞とは、一種の総決算なのです。結びのことばとして、「だが、かう考へることもできるかもしれない。できることにしよう。彼は短い生涯ですばらしい仕事をした。彼の人生は充実していた、と」、そして「いづれそのうち、ゆっくりと話をしませう。そこでは時間はいくらでもあるはずだ」という2つが心に残りました。

結婚式で、「年長者でありますから、そもそも結婚とは、とか、何か言うべきかもしれませんが、あれは無理ですね。みんな組合せが違うから、一般論はできないんです。それに、なーに、むずかしいことありませんよ。結婚なんて、人類が大昔からずーつとやってきたことですから」というスピーチがありました。誰かの真似をして、もっともらしく話すよりも、こんなスピーチができたら素晴らしいし、なによりも若い二人のはなむけになるに違いありません。とはいっても、自分で使いこなすというような自信は、まったくありません。

”<挨拶はたいへんだ>から引用しました”

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2008年9月13日 (土)

辞書に訊け

謙虚

「わからない文字があったら、知ったかぶりでもって書いちゃいかんぞ。どんなことで人が見たり読むかわからないから、必ずこれを辞書に訊け。辞書を引く、などと生意気なことは言うな」と100歳になる松原泰道の父親は、よく言ったそうです。一つわからないことがわかったと思ったら、その周りで一つわからないことが見つかるのです。わからないことがわかって、またわからないことが出てくるから果てがないのです。永遠に続いていくのです。そうすると人間、自然に謙虚になってきます。誰かに言われて仕方なしに頭を下げるのではなくって、自分のどん底から「まだ足りないんだ」って気がついて、自然に頭が低くなります。

人間にとって謙虚は必要ですが「私は謙虚になろう、謙虚になろう」と努めると、どこかにわざとらしいところが出てきます。読書をしてものを考えれば、謙虚にならざるをえません。学べば学ぶほど、自分の足りないところがよくわかってきます。すると、黙っていても、謙虚な姿勢になります。少しでも学んでいこうという姿勢になってくるのです。辞書に訊くというのもそれと同じことです。

遠慮

茶の湯では「遠慮も三度限り」という決まりがあるそうです。せっかく出されたものを「結構です、結構です」と受けないと、温かいものが冷めてしまったりします。これではかえって失礼にあたるからです。ただし、これは三度まで断ってから受けるという意味ではないようです。

遠慮というのは、「遠い先のことを考える」「他人の身になって考える」という意味です。そういう時間的にも空間的にも、遠くのことを考えていくこと、それを遠慮といいます。目先のことばかりを考えないということです。

「閻魔さんにもわからんように良いことをしろ」「他にわかったら何にもならんのだ。黙々として人のために幸せを念じていけ」とも師匠である父親が教えてくれたそうです。「陰徳を積む」ということです。100歳になって、このように父親の教えを語ることできる泰道が素晴らしいと思います。その父親の教えを信じて、忠実に実践し続けたからこそ言えることばだからです。

”<百歳の禅語>から引用しました”

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2008年9月 2日 (火)

山岡鉄舟の忠孝

忠孝

鉄舟が8,9歳のとき、母に文字を習っていて、たまたま”忠孝”という字がありました。鉄舟がその意味を問うと、母が教えてくれました。そこで、なにげなく「母さまは、その道をお守りですか?」と質問しました。すると、母は、ハラハラと涙を流して、「鉄よ鉄よ、母は、その道を心掛けてはいるのものの、至らぬ女ゆえまだ完全に行うことはできません。いつもそれを残念だと思っています。忠孝の道は、その内容が遠大で、聞かせても今のそなたにはわかるまい。でも、そのつもりで一心に修行さえすれば、いつかきっと会得ができましょう。必ず必ず今日のことを忘れてはなりませんぞ」と懇々とさとしたそうです。

鉄舟は、母の「この至情の教訓は、此の一席において余が心神に浸み渡れり」といっています。このときの母の言葉は、鉄舟の生涯を一貫していました。勝海舟は、「鉄舟は、馬鹿正直ものだ。しかし、馬鹿もあれくらいの馬鹿になるとちがうところがあるよ」と評しています。鉄舟の馬鹿正直さは、この母の親譲りのものでした。しかし、その馬鹿正直さが、わが子の生涯を支配したことをおもえば、「揺籃を動かす手は、世界を動かす」という諺も納得できます。

のち13歳のとき、父から忠孝は武士の道だと訓えられ、その道を極めるには、有形のものとして武道、無形の心は禅を修めることがよいと示されました。鉄舟の一生は、この父母の教訓を身をもって祖述し、この父母の教訓を、全身心を挙げて“信じ””好ん”だものといえます。

純情

鉄舟が心から傾倒した山岡静山(高橋泥舟の実兄)が、27歳の若さで不慮の死を遂げました。しばらくの期間の師事でしたが、その悲嘆は深刻でした。かって母を失ったときにも、真夜中に母の墓に参り、夜の白々とあけるまで経文を50日間読みつづけたということがありました。そこで、また同じように、毎晩欠かさず墓参りに出かけました。

泥舟が、物陰に隠れて、噂になっている静山の墓に夜な夜な出るという怪物の正体を見届けようとしました。ちょうど、雷鳴とどろく大降りだったそうです。怪物は、墓の前に来ると礼拝し、羽織を脱いで墓に着せかけて、なにやらいっています。「先生!鉄太郎がお側におりますから、どうぞご安心ください」と大きな体で墓をかばうようにしています。静山は、生前雷が大嫌いだったのです。泥舟は、鉄舟の心根をしのび感涙に咽んだそうです。

”<山岡鉄舟>大森曹玄から引用しました”

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2008年8月13日 (水)

本質と属性

これあるによって人間

本質というものは、これがなければ人間ではないということです。これに付け加えられるものが、属性です。人間として、何が最も大切なものか?これをなくしたら人間ではなくなる、というものは何か?安岡正篤は、それは特性だといいます。才知や芸能は、あるに越したことはありませんが、ないからといって、人間であることに、別段致命的関係はないからです。多少、才が乏しくても、芸が拙くても、頭が悪くても、人間であることに差し支えないのです。

特性の根源的なものは、明るいということです。人間は、まず光明を愛します。明るいと同時に、清いということ、さやかということが、根本徳なのです。だから、明るい心を持って清潔を愛するようにしなくてはいけないのです。さらに、忍耐が必要です。忍耐をなぜ必要とするかというと、天地は悠久であり、造化は無限だからです。人間も久しくなければいけないし、ものをなしてゆかなければなりません。それは、仁とか愛とかいうものなのですが、それを達成するのが、忍なのです。

勝因に逢う

人間は、できるだけ早いうちに、できるだけ若いあいだに、自分の心に理想の情熱を喚起するような人物、理想像、私淑する人物を持つべきです。この理想像に向かって絶えず努力するということが、とても大切なのです。若い時期に、この理想精神の洗礼を受け、心の情熱を燃やしたことは、たとえいかなる悲運や困難に出会っても、救いの力になってくれます。仏教でも、「勝因に逢う」ということは、地蔵菩薩の功徳の一つといわれています。

漢方医学の根本経典「傷寒論」を研究した片倉鶴稜という江戸後期の名医がいます。鶴稜は、長年没頭したのですが、どうしても数々の疑問の解決が見つからず、百計尽きてしまいました。このうえは、記述した張仲景に教えてもらうしかないというところまで突き詰めたのです。そんなとき、疲れてうとうとしていると、「真剣な勉強に感じて、疑義を教えよう」と張仲景が現れたのだそうです。そして、多年の疑問が解けたです。軽々しく迷信を信じる者は、愚者です。しかし、なんでも軽々しく迷信にしてしまうのは、さらに愚者といえます。

”<青年の大成>~引用しました”

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2008年7月26日 (土)

阿留辺幾夜宇和

我は後世たすからんと云う者に非ず。先づあるべきやうにてあらんと云う者なり。

明恵上人の「遺訓」にあることばです。私は、後世に助かりたいなどとは思っていない。それより現世にある間に「行ずべき様に行じ、振舞ふべき様に振舞う」ことこそ大事だといっています。この「あるべきやうわ」ということばは、この日常をきちんと積み上げるという意味があり、自分が決めた本分を守り、その目標に向かってたゆむことなく歩きつづけること、つまり人間としてのあるべきようを迫ったことばだと思われます。

明恵上人は、形式主義者ではありませんでしたが、しかし形式が大事なことは知っていました。高山寺石水院に「阿留辺幾夜宇和」の掛板が掛っていて、申(午前3時~5時)から戌(午後7時~9時)までの時間割や30ヶ条の規律が掲げられています。このようなこまごまとしたことを守ることが、僧侶の「あるべきやう」であり、このあるべきようである日常を積み上げることが仏の道に従うことだと考えていたのでしょう。

ふだんの日常生活がそのまま戒を守っている、ということこそ、明恵上人が目標としたものでした。「あるべきやうわ」は、隠遁者の自覚を促すことばであり、ものごとへの的確な対応を迫り、主体的にそのときどき、場所に応じた努力を迫ることばでもあったのです。

しかし、「あるべきやうわ」ということばは、「身の程を知れ」という運命的、宿命的なものを容認することばにだんだんに変わっていきます。いま「あるべきようは」は「人それぞれの境遇、能力、職業などに即して、心身共に今現在まさに行うべきことを行うがよいとの思想、精神をあらわす語」と定義されています。

厳密(華厳宗と密教)の祖といわれるほど密教(秘密の教え)と顕教(形ある教え)を融合させ、教えの義理が同じであれば厳密を区別すべきでない、といった明恵上人の自由な精神こそ大切なものです。自分の耳を切り取るほどの激しい修業をへて、まったく自由な境地に達していたあの明恵上人のことばだということをいつも忘れてはならないと思います。

”<恋い明恵>からいんようしました”

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2008年7月12日 (土)

將錯就錯(しょうしゃくじゅしゃく)

正法眼蔵

「錯」は、「間違い」「やり損なう」という意味です。將錯就錯は、間違いのうえに間違いをかさねることです。道元禅師は、「即心即仏」の巻で「学者おおくあやまるによりて、將錯就錯せず。將錯就錯せざるゆえに、おほく外道に零落す」といいます。「間違えたらすぐに直せ」という現代の教育に対して、「間違いを恐れず次々に間違っているうちに最後には正しい答に到達するのだ」という道元の苛烈なことばです。

連続してやり損なっているのを恐れないで、なおひたむきにひたすら努力する尊さをあらわしているのです。それでも禅の真髄に到達できるというのでしょう。なにが間違いだかそう簡単に決められないし、よくよく考えてやり始めた以上、やり遂げるまでやりつづけるからこそ、なにかしらの到達点にたどり着くのだといっているのだと思います。

規則正しい毎日の願望

朝5:00にベッドから出て、雨戸を開け、顔を洗う。17:30仕事を終え、スポーツクラブに行き、22:00ベッドに入る。この生活を毎日維持したいのですが、来客とか宴会とかがあって、なかなかつづけられません。こじつけかもしれませんが、細かな決まったルールを生活でも仕事でも守りつづけることが大切だし尊いのだと教えられたような気がします。

人生に「間違い」はあるのでしょうか。自分の一度しかない人生を、自分が選んだ目標に向かって進めば、たとえ他人からは間違っているとか常識に外れているとかと見られても、自分なりに、いつかなにかしらの結果はだせるはずです。結果があらわれるのが、来年なのか3年後なのかはわかりませんが、自分で決断して始めたのですから、あとは前進するしかありません。もし他人からはすっかり諦めたようにみえたとしても、自分としては単なる軌道修正以外はありえないということです。

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2008年5月11日 (日)

使用言語の自由度

階層別の言語

英国では、貴族階級jの英語に、ミドルクラスもローアーとアッパーがあって、ワーカーがあります。さらに、パブで聞くようなブルーカラーの人たちが喋っている言語が一番下にあるのです。面白いのは、最上位の人は、下位の言葉を使っていいということです。どの言語でも使える人が上位者で、階層が一つ下がるにつれて、使える語種が一つづつ減るのです。逆にいうと、下層階級が上品な言葉を使うと、地位を僭称したことになり、勝手に身分を越えたことになってしまうのです。

正しい英語を喋らなければいけないという強迫観念を持っています。でも、よく考えてみると、オーストラリアの英語も、英国の英語も、アメリカの英語もそれぞれ違うのです。ある人が、「あなたはどのくらい英語で会話ができますか?」と聞かれて、「頭のいい外国人とだったら結構喋れますが、頭の悪い外国人とはほとんど喋れません」と答えているのを聞いたことがあります。確かに、頭のいい外国人は、断片的に単語を並べても、「つまり、こういうことが言いたいのですね」と察してくれるし、言葉に詰まっていれば、「こういう言葉が言いたいわけ?」と適切な単語を入れてくれます。さらに、会話のスピードも使用する語句もこちらのレベルに合わせてくれるのです。

力のある言葉

言葉の力を知らない人は、全部同じように聞こえるかもしれませんが、言葉は一つひとつ深さも響きも違います。言葉に力があれば、相手は反応しますし心にも届きます。言葉には、意味のレベルだけでなく、それ以上の浸透力のようなものがあるようなのです。

自信があって、自分自身の言葉で語ると、身体全体で話すということになります。身体のいろいろな部分から複数の音がでてくるのです。嘘をついたり、マニュアル通りに喋っていると、自分の話の内容に同意できていないので、身体の他の部分が連動していないために単調で力がないように聞こえます。他人の言葉を借りて話す場合でも、自分が本当に信じていなければ、力のある言葉には決してならないのです。

大きな声は、力のある言葉ではありません。勿論、小さな声でぼそぼそという言葉も、力のある言葉にはなりません。相手にはっきりと語尾まで聞こえる声が、力のある言葉の前提です。

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2008年4月29日 (火)

素行自得

富貴に素しては富貴を行なう 艱難に素しては艱難に行なう(中庸)

素とは、絵を描く白い絹のことです。この素絹(しろぎぬ)がなければ、絵も描けませんから、そこから素地という意味になりました。

富めばその富というものの意味をよく考えて、その力を最大限活用するのです。その反対に「貧賎に素しては貧賎に行なう」と考えると、富貴には富貴の意味・効用があり、一利あれば一害ありで、貧賎にもまた意味・効用がありますから、悪いことばかりではないのです。貧賎には、富貴では得られない意義もあるし快楽もあるということです。ですから、富貴とか貧賎とかというものは、突きつめれば同じものなのです。

不遇・逆境は、自己を練るには最もよい場所です。たとえば、病気をすると辛いことは辛いのですが、その病気のなかに無限の意味もあり効用もあります。たとえば、痛快とはよく言ったもので、痛さの快感ということもあるのです。

自分というものを忘れて人を羨んでみたり、足元を見失って他に心を奪われたりしないで、現実の自分に徹するということは、案外できないものです。現実遊離の考え方は、もともとは日本の恵まれた歴史や地政学的な位置にその原因があるのですが、それは甘やかされた「位に素さない」ものといえます。

子入るとして自得せざるなし

自得というのは、自分で自分をつかむということです。しかし、実際に一番失ないやすいものが、自己というものなのです。

「独」というのは、「絶対」という意味です。「独立」というのは、他に依存しないで、自分自身が絶対的に立つということです。「独歩」というのは、群衆と一緒に歩くことではなくて、自分が絶対的に自立自行するということなのです。自分自身が絶対ということは、相対を絶することになります。

”<知命と立命>から引用しました”

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2008年4月13日 (日)

ことばは惜しみ惜しみいうべし

良寛の「戒語」

良寛は、ふだんの言葉づかいや人に接する態度を正さなければ、「愛語」は「愛語」として働かないと考えていました。そこで、愛語の妨げになる態度や言葉づかいを戒め、これを正すために自戒のメモ書きを作りました。それが「戒語」です。良寛は、それを人のために説こうとしたのではなくて、すべて自分のために、自戒の心得としたのです。重複するものを整理しても306項目もあるそうです。

「すべてことばは惜しみ惜しみいうべし」とは、思いのこもらない態度で言葉を発してはならないという意味です。たとえば、「ことばの多き」「はなしの長き」「講釈の長き」「物言いのくどき」「返らぬことをいくたびもいう」「人のことばを聞きとらずしてものいう」などです。どれも愛語からはほど遠いので、そうした態度を改めようと記したのです。

「口のはやき」「口をすぼめてものいう」「口をとがらしてものいう」「かしましくものいう」、言葉づかいは慎重に、自慢話をやめよ、自己都合だけのいいわけ、他人を侮蔑したり不愉快な態度を禁じる、など微に入り細にわたっています。これによって、良寛がどうすれば「愛語」を徹底して実践することができるかを真剣に考えていたことがわかります。ただ耳あたりのいい言葉だけが「愛護」ではないと考えていたのです。言葉の発せられる動機とか、内に含んだ気持ち、そしてその言葉によって連想される思いに対して、どれほどの気配りがあるかを大切にしていたのです。

菩薩薩埵四摂法(ぼだいさったししようぼう)

道元の「正法眼蔵」の布施・愛語・利行・同事の徳目のことです。良寛は、道元を大好きでしたが、とりわけ「愛語」を大事にして実践しました。誰にむかっても差別なしに、まず慈しみの愛の心をおこし、優しいいたわりの言葉をかけようというのが道元の提唱です。誰にむかっても「愛語」を語りかけるというのは、そう簡単にできることではありません。憎んでいる人には、思わず知らず憎悪の言葉が、嫌いな相手には、愛想のないそっけない言葉になり易いものですが、良寛はそんなときにつとめて「愛語」を発するようにしていたのです。ここのところが肝心なのです。

「愛語」は、日常に生きていくのにも大きな力を与えてくれますが、その基本には、憎い敵愾心を持つ相手とも和解させることができるという力を持っています。道元は、「愛語よく廻天の力あり」とその力を表現しています。愛語を発するベースには慈愛の心がありますから、それが自然に相手に伝わるのです。

”<座右の良寛>から引用しました”

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2008年4月11日 (金)

而今(にこん)

時もし去来の相にあらずば、上山の時は有時の而今なし(正法眼蔵)

去来の相とは、時系列の流れにおける時です。その時も単に時系列に流れるわけではなく、なにかを感受したときには、瞬時にこれまでの体験の総体のなかに位置づけるのです。たとえば、「あの時に増して嫌なこと」だと思ったり、「取り返しのつかないこと」だというような、複雑な分別・意味づけを伴って「経歴」(きょうりゃく)されるのです。意識的であるかどうかはともかく、あらゆる現象は、知覚された途端に自己の物語の時空に繰り込まれていくということです。

この去来の相とは違った時もあると道元禅師はいっています。それが「而今」なのですが、たとえば山に上るという体験のなかでも流れない時としての「而今」は現れることがあるといいます。美しさに見とれて忘我状態になるように、流れていかない永遠のような一瞬のことです。

あらゆる存在は、時の成立と共に成立すると禅師は考えました。その限りでは、「排列」(時系列に排列すること)「経歴」された流れとしての時も、また粒子的に独立した時としての「而今」も、共に存在の2つの様態としての「有時」なのです。しかし、同じように「有時」でありながらも、明らかにその二つのまったく異質な時を成り立たせるというのです。

流れない有時「而今」を、瞑想や坐禅で目指すのですが、そこでは時が「空」に属しています。「排列」も「経歴」もされず、まして意識的な分別も働かない状態なのです。存在は、時と共に成り立つのですから、流れない時のなかでは、いわゆる自己も成立していません。つまり、さっきまで成立していた自己がそこでは輪郭をなくしてしまうのです。

自己については、この時間の二面性でも捉えることができます。通常の人生という流れにおける物語色の強い自己と、それとは独立した過去と隔絶した自己です。我々は、そのどちらか一方を生きるのではなくて、いつも双方を往来しながら暮らしているともいえます。

大切なのは、そのように「而今」として体験された「今」は、時が経っても歴史的時系列に容易に組み込まれず、「而今」独特の輝きを保つということです。道元禅師は、そのことを「彼方にあるに似たれども而今なり」と表現しています。だからこそ、修行を悟りのための目的や手段と考えてはいけないのです。普通に考えれば、目的に向かって努力するのは悪いことではないと思われるでしょう。しかし、そのように「排列」され「経歴」された因果的時間は三昧からも遠く、而今としての輝きを持ち得ないと考えたのです。

”<現代と仏教>から引用しました”

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2008年3月 9日 (日)

死者のことば

死者が持つ他者性の濃密さ

言語は、どこまでいっても条件付きで、相対的ですから、その前提条件を取り去ると、もはや人間の言葉とはいえません。ある一定の、ある条件の下では、この言葉が通じるというのが、人間の言葉だからです。ですから、あえて相対的なものではなく、絶対的な言葉を使う「場」が必要な場合は、死者の言葉(絶対者の言葉)という方法しかないのではないでしょうか。ある人間の存在に根拠を与えた人間が、その人にとってだけの特別な死者だからです。それだからこそ、相対的な条件のなかでしか生きられない人間にとって、どうしても決着をつけなければならないようなときに、もう人間の言葉ではないものを援用するしかないのです。

その人間の存在する意味の一部をつくった人、その存在に根拠を与えた人、が不在になったのです。死者になってしまったのですから、その人間にとってはその不在という「欠落のリアリティ」が、次の力を生みだします。さらに、死者には、通常は法要とか供養という手段でアプローチするしかないのですが、そのアプローチが死者に本当に伝わっているかどうかは誰にもわかりません。わからないからこそ、死者とのコミュニケーション手段として、その人間にとってはそれしかないという思いで大切になるのです。

見えないのに見えるといってはいけない

虹は見えますが、実在はしていません。見えている人にとっては実在しているのと同じなのですから、それはきっと実在しているのでしょう。しかし、見えていない人にとっては、実在しているとはいえません。それについての証明は誰にもできないのですから、決して見えないのに見えるといってはいけないのです。そういう事実が起こったということは承認しても、それに関して説明してはいけないのです。説明してもぜったいに届かないというものがあるにもかかわらず、あたかも届いているかのようにいうことは間違いを生みだします。

お釈迦さまも神通力については、否定をしていないようです。確かにある神通力なのですが、それを説明したり、意味づけたりするときの言葉は、ほとんど無意味なものになります。同じ人間なのに、見える人と見えない人がいるという事実だけを受け入れるしかありません。そうでないと、実存の不安を抱えているような人が、そっちにぜんぶ吸い取られていってしまうからです。

“<問い>の問答を引用しました”

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2008年3月 2日 (日)

アンバランスだから生きられる

生きるということのもっとも大きな力はアンバランスさ

バランスがとれたら、生きるという意味を萎縮させて心の生産性がなくなって止まってしまいます。人間の身体も、左右対称ではありません。だからこそ、思考が左右対称を求め、身体が違うという現実との落差から思考のエネルギーが湧いてくるのではないでしょうか。非対称というのは、それだけでエネルギーを生みだす力があるのです。

禅の「百尺竿頭に一歩を進む」ということばの意味がわかったような気になりました。でも、わかったらいけないので、わからないからこそもっと前進できるし、もっと深く考えることができると思い直しました。アンバランスを自ら求めつづけ、決してバランスをとりにいってはいけないということです。バランスとは、わかったふりをしたり、断定して終わらせてしまったりすることをいうのですから。アンバランスこそが、生きる活力の発生源になるのです。

生きているという実感は、目が覚めたときに強く感じます。意識のないままで寝ていたからこそ、意識が戻ったと感じられるのでしょうか。そして、今日一日を大切にして充実した時間を過ごそうと決意するのです。始まったことは必ず終わりますから、いつだかはまったくわかりませんが、いつか終わるまでの時間を大事にしたいからです。そんな理由で、テレビを見て時間をつぶすような習慣はなくしましたが、まだまだ無駄な時間を過ごしているといつも感じています。ひとりで生きているわけではないので、それなりのお付き合いもありますし。自分でコントロールできない?時間があるから、よけいにコントロールできる時間が貴重に思えるようになったのかもしれません。

ぜったいに閉じさせまい

「閉じる」というのは、ある問いに対して、「答えはこれだ」と一つの答えをだして問いを塞いでしまうことをいいます。いいかえれば、「わかったことにしてしまう」ということです。そうなると運動は停止してしまいます。だから、「閉じたらだめだ」と意識して疑って考えていなければならないのです。わかり易く解説して断定している答えを疑って、わからないことを大切にして問いをふさがないようにしなければならないということです。

人間がことばを持ったのも、わからないというアンバランスを埋め合わせるためとも考えられます。しかし、何がアンバランスなのかもわからないのですから、ことばは運動を決して止めないのです。そして、語れば語るほど、ことばでは語れないものがあるということがわかるようになるという矛盾があらわれてきます。また、ことばについて考えるのにも、ことばを使わなければ考えられないというような矛盾もあります。だから、ことばではいえないものは、繰り返し、またいい直し、またいい直すということをしつづけるしかないのかもしれません。

”<問い>の問答”を参考にしました。

                                                                                                              

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