メタ・メッセージ

2009年8月23日 (日)

トロフィ・ワイフ

アメリカの話?

夫婦2人力を合わせて家庭を築いてきて、何もかもうまくゆくと思っていたときに、ある日突然に、夫が他に愛する女性ができたので離婚をしたいときりだします。この場合、夫が何か理不尽なことをしていれば攻撃もできますが、さもない場合は、できる限り合理的に話し合い、後は、夫は夫の人生を生きるのに対し、妻は妻の人生をしっかりと生きますから、ということで、きれいに別れるしかありません。その際の若いチャーミングな新しい夫人を、アメリカでは、トロフィ・ワイフというのだそうです。

日本だったら、夫の方に、恩知らずとか、わがまま勝手などと非難が集まるかもしれませんが、アメリカでは、そんなことはないようです。もしも、この別れた女性が、夫を恨んだり嘆いたりすると、周囲の人から彼女は自立性のない弱い女性とみなされてしまいます。そこで、女性は、こんなことで私はへこたれはしない、自分の人生をしっかり生きてゆくのだ、という姿を他人に見せねばなりません。一方、トロフィ・ワイフを獲得した男性のその後は、必ずしも幸福とは限らないようです。お互いに愛し合って結婚したのですが、年齢差が相当にありますし、数年経つと、愛が変化して、それほど幸福が長続きしないとのことです。

持ちたいけれども、実際に持つと困るものは、セカンドハウスとセカンドワイフといわれています。どちらも持ったことがないので、よくわかりませんが、やり直すチャンスがあるので、困ってもセカンドワイフの方が日本では現実的かもしれません。トロフィ・ワイフのように、熱烈な恋愛によって結婚したのに、しばらくすると熱が冷めてしまうのです。激しい恋愛感情は、長続きしなかったり、もろさを露呈したりすることがとても多いのです。

夫は、もっと妻を大切にしなければならないとか、愛し合っている者が夫婦になるべきであって、日本のような見合い結婚は駄目だとか聞いてきました。しかし、ともにお茶を飲んだり、お喋りをしたりするというような日常行為のなかで積み重ねられた愛は、激しくはなくても、深くて強いものです。人間の感情には、激しさと深さとがあります。目に見える行動として、他人にもよくわかる激しさよりも、あまりわかる行動とは結びつかない深さの方が切っても切れないという強さがあるのです。

もっとも、日本でも、定年後の離婚や老人ホームでの恋愛などが特別なことではなくなっています。平均しても80歳以上まで生きるのですから、相思相愛の関係で結ばれると幸福になる、という固定概念を冷静に見直すことも必要かもしれません。

”<大人の友情>から引用しました”

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2008年11月19日 (水)

投機

機に投ず

投機は、本来は禅語で、修行者が真理の世界に参入して道と合一する体験を指した言葉だったことを知りました。要するに、本来の投機とは、からだ一つにもどる勇気のことなのです。お金はなくても、学歴がなくても、人の「いのち」は営々とつづいていきます。自然と一体になって生きているこの「いのち」に目覚めるためには、身につけてきた一切の概念を捨てよと、禅はいっているのです。

投機的な資産の運用は、必ず成功するとは限らないのですから、からだ一つにもどる勇気とどこかでつながるのかもしれません。投機というのは、「お金が空を飛ぶ」事態だとアダム・スミスも怖れたようです。新しいお金の用い方によって、社会的な地位があり、優れた倫理を兼ね備えたお金持ちの世界が崩れることが心配だったからです。そして、お金というのは、投機によって自己増殖しますから、心配が的中して、お金持ちに人徳や倫理を求める必要がなくなってしまいました。

お金で買うという行為は、基本的に等価交換に支えられています。しかし、等価であるかどうかが、どうしてわかるのでしょうか?自分の「いのち」と等価なものなど、この世の中に存在するのでしょうか?楽をして少しでも有利に交換しようとなどとするから、だまされたりするのです。投機で得たお金は、いつか投機で消えていくのだと思います。

お金をもっていれば、コンビニなどでは、子供も大人と対等になります。マニュアルどおりに扱ってくれるからです。将来のためにと、実際に子供に投資をさせている親もいるようです。お金を得ることが、いかに簡単で安易なことかと誤解してしまうのではないでしょうか?リスクは、すべて親が負ってくれるのですから。現代のお金持ちが、利子や投資でますますお金持ちになるにしても、それを子供に教えていいのでしょうか?

”<無功徳>から引用しました”

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2008年11月13日 (木)

ホモ・ルーデンス

ホイジンガ

人間の働きや行為の本質は何か、人間存在の根源の態様は何か、という問いに対して、そこに共通する「遊び」を引き出し、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)という概念を確立したのは、オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガです。その著書「ホモ・ルーデンス」が刊行されたのは、1938年65歳のときでした。

ホイジンガは、遊びは文化より古い、「ホモ・ファーベル」(作る人)よりも「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)が先にあるとして、「文化こそ遊びから生まれる」といっています。遊びには、社会や学校のメタ・モデルがあり、遊びには、哲学や市場のメタ・ルールがあるというのです。そして、遊びによりすべての人間行動をみていくのです。

ホイジンガは、「最高の真面目さをもって事を行うだけの価値があるのは、ただ神に関する事柄だけなのです。これに対して人間はただ神の遊びの具になるように、というので創られたのです。だから人はみな男も女もそういうあり方にしたがって、もっとも美しい遊びを遊びながら・・・生きていかなければいけません」というプラトンの言葉を引用しています。

自分の今やっていることを「遊び」と思っている人は少ないようです。まして、仕事を遊びとはとても思えずに、あくまで別々と信じている人が多いのではないでしょうか。仕事は高尚な行為で、遊びは仕事のための休息と錯覚しているのです。ホイジンガは、本当は、どちらも遊びだと教えてくれているのです。確かに、仕事ができるといわれる人ほど遊びにも熱心なようです。そんな人ほど、きっと仕事と遊びを無意識に区別していないのでしょう。

サラリーマンが企業に就職するのも、単なる偶然にすぎません。生まれたときから、どこに入社して、またどこに転職するかなどと決まっているわけはなく、サラリーマンになるというのも、たまたま偶然だったはずなのです。まして、途中で、大きな病気でもすれば、サラリーマン人生も大きく変わります。それなのに、平気で堂々と天職などと公言したりするのを聞いたりすると、なんともナンセンスで可笑しくなります。

「仕事に人生を入れるな 人生に仕事を入れよう」というくらいの気持ちで仕事を考えておかないと、せっかくの人生の貴重な時間をづるづる使ってしまいます。サラリーマンにとって、企業とは「貸しもないけれど、借りもない」という関係にすぎません。それなのに、退職した後までも、会社主催の親睦会などに出かけて行って、旧上司にお愛想をいったりしているのは時間の無駄だと思います。まぁ、それ以外にやることがなくて、お愛想も「遊び」で、本人が心から楽しんでいるのなら、よけなお世話なのですが。

”<豊かさの探求>から引用しました”

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2008年11月 7日 (金)

教養がある

価値の遠近法を身につける

教養と知識は違います。教養については、あらためて考えると、どうもこれという決まった定義はないようです。一般教養のように、大学の専門課程以前の広範な基礎知識を指すのでしょうか。あるいは、洗練された会話や身のこなしができる能力なのでしょうか。教養がない人というのは、品位や人格に問題がある人間という意味ですが、では、品位があって人格が優れていれば教養があるといわれるかというとそうでもありません。ただ、教養には、古典やハイカルチャーを身につけているのが伝統的な要素となっていることは確かなようです。

「教養とは、価値の遠近法を身につけること」ということもできます。つまり、本物と偽物を見分ける力を身につけることが大切というのです。たとえば、「絶対に捨ててはいけないもの」と「あってもいいけどなくてもいいもの」といった異なる価値を自分の中に据えることができるかということです。

「教養というのは、知についての知、あるいはおのれの無知についての知のこと」という意見があることを知りました。つまり、知的探求を行っている自分自身の知のありようについて、上から鳥瞰できることが「教養がある」ということなのです。「自分の置かれている文脈を見る。なぜ自分はこのことを知らずにきたのか。なぜ知ることを拒んできたのかという、自分の無知の構造に目を向けた瞬間に教養が起動する」と説明されています。確かに、自分がわかっていないことが、なんであるかをわかるというのは、とてもハイレベルだと思います。それがわかれば、次に、なにをしたらいいかわかるのですから。

「教養というのは、いわば図書館全体の構成を知ること」とも、たとえられています。図書館にある本は、情報化された知識です。ですから、図書館全体の構成を知っていれば、自分が読んだ本がどこにあり、読むべき本がどこにあるのかがわかるというのです。自分の知識がどれほどのもので、自分が知らないことがどういう広がりともっているかを知ることができるということです。そして、「このことについてわからないのはなぜなのか」という問いをたてられるようになった段階は、かなりの知的な達成とされています。

大人の教養もだんだんにおかしくなってきていて、「大人らしくふるまう」という建前が崩れているようです。大人には、過去のその時々の自分がぜんぷ同居していますから、もののはずみで小学生の自分が現れることもあるでしょう。今まで生きてきた年数分だけの自分が一人の人間の中に存在しているのです。ですから、「大人らしくふるまう」という建前を崩したら、たとえ老人でも本音をむき出しにしてしまったら、すぐにただのこどもに返ってしまうのです。

”<大人のいない国>から引用しました”

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2008年11月 4日 (火)

早く読まないと大人になっちゃう

読むべき本を読むべき時に読む

子供の頃に読んで感動した本を、大人になって読んだら、まったく感動を覚えなかったというエッセイを読みました。だから、少年少女全集の「早く読まないと大人になっちゃう」というキャッチコピーにとても感心したともいっています。確かに、本からの感動とはそうしたものかもしれません。でも、あまり幼い頃のことはよく覚えたいないので、「三銃士」「即興詩人」などを大人になってから読み返してみてもとても面白かったような覚えがあります。子供の頃にに読んだ内容をほとんど忘れていたので、はじめて読むような感覚で読んだからでしょうか。

本を買って読むとだんだんに溜まる一方なので、読んでしまったらすぐ処分する癖がついてしまいました。たとえば、藤沢周平の小説は、ほとんど読んだと思いますが、今、手元には1冊もありません。最初の1冊に出会ったときは、その物語の雰囲気にすっかり心地よく浸って読んだ記憶があります。きっと、あのときが藤沢修平という「読むべき本を読むべき時」だったのでしょう。

読書は教養の土台だが、教養は大局観の土台である

安岡正篤の本は、ほとんど読んでいますが、最近もう一度読みたくて、書店にあると買い足しています。そして、以前に読んだ内容を断片的に思いだしながら、精読しています。しかし、今、読まなければいけないという本も多いので、いつも最後まで読み切れないで積んであります。時間がいつかできるでしょうから、そのときは腰を据えてゆっくり読もうと楽しみにしています。

いろいろな人間がいるということをなんとなく本を通して知ったような気がします。どんなに社交的でも、現実の人生ではそれほどの人数には出会えませんし、まして、深いお付合いなどとてもできません。映画やテレビの映像もいいのですが、眼で見えてしまうので、なんだか想像力というかイメージが限定されてしまうようです。一方、本の登場人物については、作者の思惑を無視しても、読者が勝手にどんどんとイメージを膨らませることができます。

大局観というかマクロ観がないと、ここ一番というときに判断を間違えることがあります。たとえば、近視眼的に、目先だけの利害得失や肉親だからというようなことで判断することです。必ず、時は流れますし、人間の考え方もどんどん変わるのです。今、正しいとされていることも、将来も正しいとは誰もいい切れません。専門家に相談はできるでしょうが、どうしても最後の決断は自分が下さなければならないはずです。抽象的なマクロ観が、具体的な大切な結論を導くのです。

”「書くの壁」から引用しました”

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2008年10月30日 (木)

第一呼吸は、吸うのか吐くのか

赤ん坊のはじめての息

人は息を吐いて生まれ 息を吸って死す(五木寛之)

人は息を吸ってこの生を受け容れ、息を吐いて休息する(玄侑宗久)

赤ん坊は、母親のおなかの羊水の中で呼吸しています。そして、生まれてくるときに産道をとおる圧迫のなかで、肺にまで充満していた羊水を絞り出すのです。気道にも羊水が入っていますから、それも出さないと呼吸ができません。だから、胎児がオギャーと泣くのは、その濡れている気管で、最初に吸う息が苦しいからなのだそうです。その最初に吸う息がうまくいかないときに、お尻を叩くというのです。

一方、赤ん坊は、生まれたときは、ほんのわずかですが、息をしていないのだそうです。だから、パンとお尻を叩いて、羊水と一緒に息を吐き出させるから泣くのだという考えがあります。

息を吸うのは、吐ききれば自然にはいるので、普段はあまり意識しませんが、自然に具わった人間の身体機能としては、能動的と考えられています。確かに、吸うから吐くという呼吸については、能動的に吸って、吐いて自然の状態に戻ることともいえそうです。

最初の呼吸を第一呼吸というのですが、研究論文もあって、産道をとおり抜ける時点で、もう吐ききった状態になっているのだそうです。だから、赤ん坊の第一呼吸は、吸うのだと説明します。

一方、肺が弾力性を失うと、息は吸えるのですが、うまく吐けないのだそうです。その吐くということのむずかしさを体験したので、吐くことが肺の根本的な力だと考えているという反論があります。面白いのは、実感と医者の論文であれば、実感を大切にするそうです。そのわけは、医者の話を信用できないからだそうです。医療では、昔こう習ったけれども、いま反対ということがなんとも沢山あるからです。

死ぬときに、息を吸うのか吐くのかは、どちらでもいいと思いますが、赤ん坊の第一呼吸には興味があります。きっと、ベテランの産科医やお産婆さんは、正解を知っているはずなのに、なぜこんな議論がいまさらされているのでしょうか。赤ん坊が生まれる瞬間は、それぞれ個人差があるのでしょうから、観察しているような余裕がないのでしょうか。でも、第一呼吸というようなプリミティブな話題があることを知って、なんとも楽しくなりました。

”<息の発見>から引用しました”

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2008年10月15日 (水)

受かるまでが楽しい資格試験?

宅地建物取引主任者の試験

妻が、今年の宅地建物取引主任者試験を受験するための勉強をしています。今年初めに勧めたのですが、あまり乗り気でなかったので、その気がないなら仕方ないと忘れていました。でも、どうも、夏頃からそっと参考書を読んでいたらしく、9月から本格的に試験勉強を始めました。10月19日(日)が試験日ですから、時間が少し足りないような気もするのですが、次第に気合が入ってきたらしく、最近朝4:30頃からやっています。

それを傍で見ていて、何年か前のことを思い出しました。当時は、サラリーマンで出張が多く、夜もお酒を飲む機会が多かったので、朝4:30からホテルで参考書を開いていました。宅建主任者試験を受けるのだからと、関連している管理業務主任者とマンション管理士も試験範囲が重なるので一緒に勉強していました。いやに難しかった覚えのあるマンション管理士も含めて幸いその年に3試験受かったので、つい欲が出て行政書士にトライという気になってしまいました。

3試験が終わって、マンション管理士は落ちたと思い込んでいましたから、翌日から参考書を開いた記憶があります。一年に一度の試験なので、広い範囲だとそれをカバーする時間がどうしても最後に足りなくなったのです。しかし、どうにかマンション管理士に合格したので、いよいよ行政書士の試験勉強を始めたのですが、そこには一般教養という難関が控えていました。もともと新聞などは、斜め読みしていて旬の話題に遅れなければいいくらいに考えていました。それが中学生レベルの一般教養が範囲というのですから、漢字、理科、社会などとまったく考えてもいなかった勉強範囲に広がったのです。

行政書士やマンション管理士などを職業にしていると、その資格を持っているというだけではまったく通用しません。試験ならどんなに難しくても100点取らなくても必ず合格するのですが、実際の仕事では限りなく100点でないと信用してもらえないし報酬も頂けません。行政書士事務所を開くときに決意して受験したとき以上長時間、毎日机に向かっているのですが、なかなか100点にはとどきません。専門を不動産関連にしているので、外国人登録やペットまで含まれますから、結構広範囲です。ですから、ここまで来たら繰り返し以外にないと覚悟を決めています。

資格を取るために受験をするというのは、誰に頼まれたわけでもなく、たとえ落ちても誰にも迷惑をかけません。そして、試験という目標があるので、毎日があっという間に過ぎるくらい充実しています。試験が近くなるとだんだんハラハラドキドキも楽しめます。今、妻も楽しんでいます?から、どうも資格試験は合格を目指しているときの方が楽しいようです。今年受からなかったら諦めるとか、生活をかけているような受験生に向かっては、こんな呑気なことは、勿論、口が裂けてもいえないのですが。

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2008年10月 8日 (水)

どこに向かっているの

突然の質問

あるとき「どこに向かっているの?」と聞かれて、そのときは「流れに任せて、求められている方に」ととっさに答えたのですが、そのあと悩んでしまいました。もともと行政書士の資格が取れたら、不動産関連の実務を始めようと考えていました。マンション管理士・管理業務主任者・宅地建物取引主任者という資格を持っていたので、宅建業者の登録をして不動産について、なんらかの仕事をするという気持ちは固まっていました。

自己所有の共同住宅や駐車場を管理する会社を父が20年前に設立していたので、業者登録をして、定款を変更して、その会社を継ぎました。それからは、賃貸だけで、ホームページだけで、営業をしているのですが、とても経営として成り立っているとはいえません。でも、最初から店舗を構えるほどの資金や勇気もなく、まぁ2年間くらいは、仕方ないだろうと思っていたのです。

現実は、資格があっても、依頼がなければ、資格など何の役にも立ちません。とはいっても、資格を磨きあげなければ、実際の相談にものれないので、有り余る時間?を使って知識を蓄えようとしています。ただ一口に不動産関連といっても幅広くて、ペットや敷金返還・原状回復などの実生活に密着するさまざまなことが含まれます。誰もが、ちょっと困ったときに、すぐ弁護士に頼んで訴訟を提起するわけではありませんから、そんなときの相談相手は必要なのです。だから、実務もできて、法律もある程度アドバイスできれば、そんな困っている人のお役に立つだろうと単純に考えていました。でも、どうも最初の思惑が違っていたのかもしれません。

そんなときに「どこに向かっているの」といわれたのですから、たまりませんでした。そこで、行政書士としてはホームページで、マンション管理士としては大田区マンション管理士協議会の事務局活動を通して、たぶんどこかにいるはずの困っている人との接点を持つ努力をすることにしました。勿論、賃貸物件を探している人にも、できる限りお役に立ちたいと思っています。そのために、宅建協会大田区支部の共済会委員を受けて、業者間のお付合いにも参加することにしました。まだ、どこに向かうという答えにはなっていませんが、具体的に行動することでなにかしら答えが出るのではないかと思います。

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2008年8月 4日 (月)

猫の長寿化

平均寿命

東農大と日本愛玩動物協会が2002~03年にかけて共同調査したところ、猫の平均寿命は、9.9歳(この調査には、自宅で天寿をまっとうした猫やノラ猫は統計されていないようです)だそうです。同じ調査で、1990~91年の平均寿命は、5.1歳でしたから、この10年あまりで倍に延びたことになります。猫の寿命が延びた要因のひとつに、感染症の死亡率が25%から16%に減少したことがあげられています。これには、ワクチンの開発と普及が大きく貢献しています。その他の要因では、猫の健康に配慮したペットフードの開発や血統猫の流行にともなう室内飼育の普及もあります。

同じ調査で、犬の平均寿命は、11.9歳になっていますから、猫は犬より短命ということになります。しかし、猫には、外で餌だけをもらうノラ猫が相当数いますから、これら医療の手が及ばない猫の数を加算すれば、5歳に満たないと考えられています。一方、猫の最大寿命は28年、犬の最大寿命は20年というデータもあります。

日本の最長寿猫は、36歳という記録があるそうですが、ギネスブックには、アメリカとイギリスで34歳の記録があるようです。実際には、20年くらい生きる猫もたくさんいますから、室内飼育などの条件を向上させれば、寿命はもっと長くなるはずです。しかし、現在は、19歳が猫の限界という意見が多いとも聞いています。

オスとメス

メスの寿命が、圧倒的にオスより長いようです。オスは、ささいな環境変化によってもストレスを受けやすくて病気になったりします。オスのノラ猫は、縄張り争いによる喧嘩や放浪によって感染症にかかるリスクも高いのです。また、体のつくりの差異にも一因があると考えられています。乾燥した地方で発祥した動物として、猫は、濃縮された尿を排出します。そのため尿道結石が生じやすいのですが、オスは、尿道が長く先細りしているために、尿道閉塞をおこしやすいのです。

生まれる割合は、オスが55%とわずかに多くなっています。しかし、難産で死ぬのはオス、未熟児でも生き残るのはメスという事実もあります。さらに、性ホルモンのうちテストステロン(雄性ホルモン)は、オスらしさの源として運動促進しますが、そのぶん代謝が高まり消耗が激しくなります。エストロゲン(雌性ホルモン)は、老化を遅らせる作用があり、延命効果があることが実証されています。どうやら人間と同じで、メスの優位性という自然の摂理が根本にあるようです。

”<猫のなるほど不思議学>から引用しました”

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2008年5月19日 (月)

アメリカの経常赤字

ドル安

アメリカのサブプライムローンの破綻によってドルの信頼が揺らいでいるので、ドル安になっています。アメリカ側から見ると、輸出が増え輸入が減るのですから、貿易収支は改善するはずです。しかし、これまでもさんざん通貨調整をしてきたのに赤字が減るどころか年々膨れ上がってきました。これは、いったいどうしてでしょうか?2つの理由があります。

アメリカ海外市場での製品の競争力

価格を巡って外国製品と競争しているなら、ドル安になれば輸入は減ります。しかし、撤退してしまって、アメリカが作っていない製品とは競争もできません。また、世界市場で競合しているものでも、品質の面でアメリカ製が劣っているものが多くあります。品質で選ばれている製品は、少々値段が変わっても売れ行きは変わりません。ですから、ドル安だからといって簡単に経常赤字は是正されないのです。

アメリカ国内での構造変化

もう一つは、ライフスタイルでのアメリカンスタンダードとこれを支える消費者像の間に大きなギャップができているということです。

アメリカの消費者像は、年々変わってきています。60年代あたりまでは、白人が90%程度を占めていました。それが80年代に85.9%、90年83.9%と漸減、2000年には一気に75.1%まで下がっているのです。21世紀に入ってからも、白人の割合は下げつづけています。2005年で70%を割り込み、このままいくとヒスパニック系やアジア系の人口増加率の方が高いので、2050年あたりでは白人は半分になるといわれています。

人種の優劣ということではありません。移民には、教育などでのハンデキャップがあります。アメリカ社会になじむのにも時間がかかるのです。問題なのは、移民が増えれば平均的に見たアメリカ人の労働生産性の伸びが鈍化するということです。

しかし、彼らもアメリカンドリームを夢見ることでは白人と変わりません。その典型が今回のサブプライム問題です。低い生産性の人がアメリカンスタンダードの消費をしたらどうなるでしょう?アブソープション(内需による吸収)理論の教える通り、生産を上回る需要がでて、純輸出(輸出マイナス輸入)は赤字になるのです。アメリカが対外均衡を回復する道は、身の丈に合った消費をするという素朴な選択以外にはないのです。

日本でも、外国人労働者を受け入れようという議論が活発になっています。高齢化や少子化の影響で、労働人口減がはっきりしているからです。拙速に数字を取り繕うよりも、もっと身の丈に合った消費をするという選択肢があるのではないでしょうか?

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